松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

福岡市中央区今川1丁目 平野神社


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京都に有名な「平野神社」がありますが、この平野神社は関連がありません。私もむかしは勘違いしていました。

平野国臣 - Wikipedia

攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や真木和泉、清河八郎ら志士と親交をもち、討幕論を広めた。文久2年(1862年)、島津久光の上洛にあわせて挙兵をはかるが寺田屋騒動で失敗し投獄される。出獄後の文久3年(1863年)に三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と大和行幸を画策するが八月十八日の政変で挫折。大和国での天誅組の挙兵に呼応する形で但馬国生野で挙兵するがまたも失敗に終わり捕えられた。身柄は京都所司代が管理する六角獄舎に預けられていたが、禁門の変の際に生じた火災を口実に殺害された。
(略)
福岡市中央区の西公園に銅像が、京都市上京区の竹林寺に墓がある。同じく、京都霊山護国神社にも墓碑および石碑が建立されている。
国臣の生家があった場所のすぐ近くに国臣を祀る平野神社(福岡市中央区今川1丁目)がある。 

ここがその平野國臣公を祀る神社です。生家跡を示す記念碑や偉業をたたえる記念碑もあります。

我胸の 燃ゆる思ひに くらぶれば 煙はうすし 桜島山

はじめて来たとき、この歌碑がなにを意味するのかもさっぱりわかりませんでした。

平野国臣 - Wikipedia

村田新八・有馬新七らの手引きで薩摩へ入ることに成功するが、国父・島津久光は浪人を嫌い、精忠組の大久保一蔵も浪人とは一線を画す方針で、結局、国臣は退去させられることになった。失望した国臣は「わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」と詠じている。

のちにこういう話だと知り「このへっぽこどもめ!」と嘆いた詩歌が石碑になり、神として祀られているお宮の横に建っているというのもどうなのかとおもいましたが、このくらい篤いおもいがないと熱心な支持者から、信仰をあつめることはできないのでしょう。また、これに涙するようでないと、熱心な信者にはなれないのでしょう。

平野神社
幕末の志士平野國臣を祭る神社です。國臣は文政11年(1828年)福岡藩足軽平野能栄の次男としてこの地に誕生、国学を学び、武術・短歌にも優れた才能を開花しました。安政5年(1858年)幕末動乱の世を案じ、国家統一・勤王の志を抱いて脱藩。各地の同志を訪ね、尊皇攘夷運動へ結集を図りました。文久3年(1863年)但馬生野で討幕挙兵するも失敗。翌年京都六角獄にて刑死、37年の生涯でした。「我胸の燃ゆる思ひにくらぶれば烟はうすし桜島山」は國臣が詠んだ有名な和歌です。
福岡市

平野神社
御祭神平野二郎國臣大人命

ご案内
平野二郎國臣の生涯を記した平野神社発刊の冊子を鳥飼八幡宮社務所に置いております。ご入り用の方はお立寄り下さい。 

気になったのは榊立てのこの家紋で、角切三紋です。公式には大蔵氏の系統とされているようですが、平野家は三島明神の信奉者(関係者?)だったのでしょうか?

福岡県神社誌:記載なし(発見できず?)
[社名(御祭神)]?
[社格]?
[住所]?
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2022.09.23訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

9月23日の日録 - 美風庵だより