松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

山口県下関市上新地町2丁目 櫻山神社(櫻山招魂場)


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櫻山神社公式サイト 山口県下関市 高杉晋作発議の招魂社

櫻山神社 (下関市) - Wikipedia

祭神

    吉田松陰 1柱
    高杉晋作、久坂義助、入江九一、吉田稔麿、河上弥市 5柱、
    白石正一郎、白石廉作、山県有朋 等 長州藩奇兵隊士 256柱
    泉十郎、熊野直助 等 豊浦藩報国隊士 96柱
    膺懲隊、八幡隊、遊撃隊、整武隊、清末藩育英隊等諸隊士 38柱 計391柱(霊標は391柱だが合祀され神霊名簿に記載されている神霊は857柱)

社号標は「桜山招魂社」です。

招魂社 - Wikipedia

1863年(文久3年)に高杉晋作は、下関戦争での戦没者の霊を慰めるため、また、今後の戦いに臨むに当たって自分たちの生墳(生前にあらかじめ建てておく墓)が必要であると発起し、奇兵隊の賛同を得て隊員共同の招魂場を設置することになった。日本初の招魂社となる櫻山招魂場(現・櫻山神社)は1864年(元治元年)5月に山口県下関市に築かれ、翌年8月に社殿が完成した。櫻山招魂場は、その後の四境戦争、戊辰戦争の戦没者を始め、吉田松陰や久坂玄瑞といった倒幕と維新のために尽力した志士を合祀している。
生前の身分に関わらず個々の戦没者を隠り身として祀る招魂社の発想は、その後全国に広がった。東京招魂社は1879年(明治12年)に明治天皇の命名により靖国神社と改称、地方の主な招魂社は1939年(昭和14年)護国神社と改称している。

ここは、のちの靖国神社や各地の護国神社の第一号という、歴史ある場所です。

3台分くらいの駐車場のすみに観光案内板があり、そこに簡単な説明があります。

七卿落ち - Wikipedia

1863年(文久3年)、薩摩藩・会津藩などの公武合体派が画策した八月十八日の政変で失脚した尊王攘夷派の7人の公家が京都を追放され、長州藩へと落ち延びた。(略)1867年(慶応3年)12月、王政復古の大号令の前夜、朝議にて赦免され、官位や諱が復されると、澤宣嘉は外務卿、三条実美は太政大臣や内大臣、三条西季知は参与や神宮祭主、東久世道禧は枢密院副議長や貴族院副議長となるなど、それぞれ明治政府の要職に就いた。 (略)山口県下関市の桜山神社の参道脇には、5人の公卿が桜山招魂場を参拝したことを記念する「七卿史跡」碑が建てられている。 

鳥居のさきに社殿があります。

社殿の正面、左右から撮影してみました。全景がわかるとおもいます。

明治天皇勅宣
長門国桜山招魂場を弔し給へる勅宣
汝等晨に乾綱の不振皇威の不宣を憂へ尽忠致死人をして感奮興起せしむ 朕今巡行追感殊に深し依て侍従番長高島昭光を遣し汝等の墓を弔し且金幣を賜う宣す
明治五年六月十二日

御神紋(社紋)は桜紋です。境内も、桜の木がたくさん植えられています。

ここが一般の神社とちがうのは、本殿背後にある大量の招魂碑(それぞれ「○○神璽」とあり、墓石とは呼ばないようです)の存在です。

案内板を以下に拡大してみます。

櫻山招魂場は、奇兵隊の嘆願により、元治元年(1864)5月に尊皇攘夷に倒れた隊士らを身分の区別なく慰霊する施設として創設され、翌年の慶応元年8月に招魂祭が挙行された。のちに全国に設けられる招魂社の先がけであり、幕末維新における奇兵隊、ひいては長州藩の思想理念を象徴する史跡である。
現在の招魂場には、吉田松陰をはじめ391基の招魂碑が整然と立ち並ぶ。その初期の姿は、招魂碑が社殿をコの字状に囲む形態であったが、明治40年代前半には神社拝殿裏に整然と集約配置された。その後も数度の改変を経て今に至っており、現在の配置形態からは、史料や石碑の色合いにより一つ前の配置形態(昭和34年)を読み解くことができる。また、吉田松陰の碑は戦前のある時点で、他と区別すべく一段高く最前列中央に据えられ、その左右には松下村塾四天王と称される高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿が配され、吉田松陰に対する当時の時代背景が映し出される。
櫻山招魂場は、幕末から近代にかけての戦死者の慰霊・追悼・顕彰のあり方などを明らかにするうえでも、大きな意味を持つ。
※招魂祭 尊皇のもとに戦死した者を慰霊し、変革成就を誓う祭祀。その起源は、文久二年(1862)に京都霊山(りょうぜん)で在京各藩有志により行われたことに始まるとされる。

境内の建物配置がわかります。

猛烈奇兵何所志
要将一死報邦家
尤欣名遂功成後
共作弔魂場上花

弔む羅和留人尓入るべき身なり志尓
弔む羅宇人となるそは津か志
 謹弔
 霊魂
 故奇兵隊士東行狂生

猛烈の奇兵何の志す所ぞ
一死を将って邦家に報いんと要す
尤も欣ぶ名を遂げ功成りて後
共に弔魂場の花と作らんを

弔らわる人に入るべき身なりしに
弔う人となるぞはずかし

最前列中央に吉田松陰、その右に高杉晋作、左に久坂玄瑞と、幕末の歴史をかじるとおなじみの顔ぶれが並びます。ここのすごいところは、有名どころも無名の者もすべてひとしく祀られているところです。

もともとこの場所は、奇兵隊の訓練場(調練場)があったところだそうで、招魂場となってから、桜を植え、桜山と呼ばれるようになったとのこと。

この日、じつは境内の裏手から訪問しました。最後に、一の鳥居横のシイノキをながめながら、現地をあとにしました。

(2022.09.20訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

9月20日の日録 - 美風庵だより