松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

福岡市博多区博多駅前1丁目 若八幡宮

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一の鳥居は、1904年(明治37年)建立です。厄除けの神さまとして有名ですが、今回が初訪問です。

若八幡宮 (福岡市) - Wikipedia

若八幡宮は、全国的に有名な厄除け神社で、別名「厄八幡」と呼ばれ、博多駅の北西750mほどの福岡市博多区(旧福岡市上辻堂町)に鎮座している。
旧社格は村社であるものの創建等は不明であるが、元禄年間(1680~1704年)に編纂された貝原益軒の福岡の地誌である「筑前國続風土記拾遺」によると、「鎮座の始詳ならす。箱崎の摂社なりしといふ。むかしは藪八幡と称せし毎年十一月初夘日櫛田宮の巫女御〇を供へ奉る。いつの比よりか御社を東向に造建せるならん。」と記され、元禄以前から筥崎宮、櫛田神社との関係が指摘されている。

もとは筥崎宮の摂社で、また、櫛田神社とも関連があったとあります。

若八幡宮

祭神は、仁徳天皇、大巳貴命、少彦名命。当宮は俗称「やくはちまん」「厄除八幡」とも呼ばれ、市内のみならず、周辺地域からも広い信仰を集めています。新暦・旧暦の大晦日には、毎年深夜まで厄除、厄ばらいの祈願を行う人々で大変にぎわいます。厄年には前厄・本厄・後厄があり、3年続けて参拝すれば次の年には厄落としになるとされています。

御祭神のうち大己貴と少彦名は、1909年(明治42年)に合祀された楊池神社の御祭神で、もともとは仁徳天皇(大鷦鷯尊)だけを祀っていました。


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楊池神社の跡地にはビルが建ち、ビルの一角に石碑(記念碑?)がのこっています。

wikipediaや福岡県神社誌によれば、境内社の「白髭神社」です。中央に事代主、正面向かって右手に猿田彦、左手にお稲荷さんが祀られています。

ところが鳥居の扁額をみると、「経〇神社・恵比須社」とあります。これはいったい……。

境内は雨の日に傘がなくても濡れないよう、軒や庇をながくとり、途切れるところはわざわざ屋根がかかっている親切設計のため、なかなか撮影が困難です。社殿全景の撮影は断念しました。

若八幡宮 (福岡市) - Wikipedia

境内にある力石(重さ180.2kg)は、記録上でしか知られない江戸の力持ち木村興五郎が持ち上げた現在確認できる唯一の力石として貴重な価値を持っており、福岡市指定有形民俗文化財となっている。

境内のすみ、お地蔵さんが祀られていました。

最初資料をみた時点では、仁徳天皇・大国主・事代主とはえらい組み合わせの八幡さまじゃないかと驚いていたのですが、この文章を書くにあたり整理してみると、もともと仁徳天皇のみを祀る神社だったものが、明治になってほかの神社を合祀した結果だとわかります。

むしろ謎は境内社のほうで、wikiでも福岡県神社誌でも白髭神社となっているからには、真ん中が猿田彦だとばかりおもっていましたが、事代主なのです。鳥居の扁額も2つのお宮が並記されており、元から白髭神社として整理されていたのか?(むかしは違ったのではないか?)と疑問がわきます。

もうひとつ不思議なのは御神紋で、流れ三つ巴紋の周囲を矢が3つ取り囲んでいます。瓦にも刻まれていますからすべてに使われていることはたしかで、左三つ巴の外を右に矢が三本、どういう意味なのか……。

福岡県神社誌:上巻78頁
[社名(御祭神)]若八幡宮(大鷯鷯命、大己貴神、少彦名神)
[社格]村社
[住所]福岡市上辻堂町
[由緒]明治五年十一月村社に定めらる。祭神大己貴命、少彦名命は上西町楊池神社祭神なりしを、明治四十二年一月ニ十九日合祀す。【特殊祭事】 十二月三十一日厄除大祭あり市内はもとより近郡町村より陸続として参拝し又厄落の餅とて鏡餅を供へて参拝するもの多数に上る。
[境内社(御祭神)]白鬚神社(猿田彦大神、事代主大神、保食神)
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2022.09.17訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

9月17日の日録 - 美風庵だより

上西町楊池神社跡(2022.10.18訪問)


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福岡市営地下鉄呉服町駅近くに、柳ヶ池神社があったことを記念する石碑があります。

この「袖の湊(そでのみなと)」があったかどうか、けっこう重要な論点らしいのです。

「袖の湊」展 | アーカイブズ | 福岡市博物館

天正20(1592)年、木下勝俊(きのしたかつとし)(長嘯子(ちょうしゅうし))は「袖の湊」はどこだ、とたずねたところ、博多の宿の主人は今は潮が満ちて海水は少しあるが普段は水がない、といい、長嘯子は「まことにもろこし舟よせつべき浦ともおぼえず」(『九州のみちの記』)と自分が抱いていたイメージとの落差に驚いています
中世末期~近世初期になって、博多では「袖の湊」という和歌のイメージが、港の呼称として定着していたといえるでしょう。しかし、その「袖の湊」はすでに港としての機能を果たさないものになっていました。

現在の研究では12世紀ごろにはすでに陸地化しており、港湾としての機能は果たしていなかったとのこと。土砂の堆積で陸地化したなかに取り残された池があり、そこに祀れていたのでしょうか。いまやそんな池もないし、そもそも神社すらないわけですが……。