松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

福岡市南区柏原4丁目 埴安神社


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戦前の地図にある道沿いに参道があります。

昭和47年(1972年)発行の地理院地図から登場する車道沿いにも、駐車場と鳥居があります。手入れのされようをみると、こちらが現在はメインで利用されているようです。

拝殿と渡りは鉄筋コンクリート造です。

本殿は、完全に石でおおわれています。

石の神殿

埴安神社背後の西四十塚、片縄山は、古くから良質の花崗岩を産出しています。これを用いた石造りの神殿です
黒田藩主長政公は、徳川幕府の日光東照宮造営に際し、これを材料に「石鳥居」(国の重要文化財)として奉納しています。

この「西四十塚」というのは、神社背後の山(丘)のことです。

社日 - Wikipedia

古代中国に由来し、「社」とは土地の守護神、土の神を意味する。

社日神にお参りするため、背後の丘の踏み跡を登ります。

古跡探訪録 : 四十塚古墳群(福岡市南区柏原)

訪問当日はまったく気づかなかったのですが、ここ、古墳の上だったようです。

社日さんに手をあわせます。

埴安神社

主祭神
埴安比古命 埴安比売古命の両産土神
産土の神・安産の神として崇められる

末社
一、右殿 若国大明神
一、左殿 貴船神

縁記
埴安神社境内を含くめ、南山山麓一帯を柏原字四十塚と称し、遠き石器時代、古墳時代の穴居遺跡が数多く存在する。
これら古代人の生活、活動の中で古池、箱ノ池が築造(一七〇〇年前)され屋形原方面の灌漑水として供されたこれらの史実は、筑前の国続風土記の記述により、明白であります。
埴安神は、このような時代の中で鎮座されたと伝わる。古代遵崇の神であり、ロマンに満ちた、柏原の民神として、永きにわたり、祭り継がれて来ました。

遷宮の史実
太古、埴安神社は現在地より南方山麓の地に位置していたが、江戸時代中、後期(一六〇〇~一八〇〇年)現在地に遷された。以後、数度の改築を経て、現在に至り、柏原の村社として祭られて来た。

願詣
一、五穀豊穣
一、安産祈願
一、七五三祝事
一、家内安全
一、厄除祈願

年祭典
一月一日正月
五月二日八十八夜
七月二十三日夏季祭(夏越祭)
十月十五日秋季大祭 

この案内板から、埴安命と埴安姫の2神が御祭神であることがわかります。埴安命とは別名 大幡主(博多のお櫛田さん)、神皇産霊神、国常立命、塩土老翁のことです。

埴安姫は別名テナヅチ、奇稲田姫の母親です。

ではこの若国大明神とは誰でしょう?「若」とつく以上、埴安命より年上のわけはないので、子の饒速日命(にぎはやひ。=猿田彦=彦火火出見尊)か、豊玉彦(豊国主、豊前坊、八咫烏)か……。どなたか教えていただければとおもいます。

画像左手が、正面向かって左側にある「若国大明神」、画像右手が、正面右側にある「貴布禰社」です。

背後の丘、立て札のあるあたりにむかし防空壕があったとあります。

防空壕は、直径3m、長さ20mあったとのこと。

福岡県神社誌:上巻92頁
[社名(御祭神)]埴安神社(埴安命)
[社格]村社
[住所]福岡市大字柏原字四十塚
[由緒]不詳
[境内社(御祭神)]記載なし。
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2022.09.13訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

9月13日の日録 - 美風庵だより