16日の記録
7月15日に中部フィルの演奏会を聴きに行くため、14日夜の夜行バスと、15日夕方の新幹線を予約しました。
近所のかたに依頼され老人会の手書き資料をワープロ打ちして、そのかた家の郵便受けに投函しておきます。その後、歩いてすぐの定食屋にむかい、ひさしぶりにちゃんぽんをいただきました。たまに食うと美味いです。
17日の記録
前日22時ごろ寝たにもかかわらず、気づいたらなんと9時起床でした。
ここ1週間ほどシャワーだけだったので、ひさしぶりに朝風呂にはいります。
風呂が沸くまでのあいだ、先日つくった梅シロップを呑んでみます。そのままでは飲めないため、水で割ります。
市販の梅味の缶ジュースには果汁1%とかあって「けちくせーな」とおもっていましたが、こうやって加水してみると、そうとう薄めないととても飲めないことに気づきます。
今回呑んだのは実をハサミで刻んで速成した「一番搾り」のため、香りが出ていません。現在冷蔵庫で寝かせている「二番搾り」になると、(砂糖だけでも)多少は種から香りが染み出してくるため、出来を確認次第、最後はブレンドして詰めなおし、ちびちび楽しむことになります。
風呂からあがって、ベランダと玄関の鉢植えの水やりをします。紀州みかんとトウグミの鉢を、うっかりして軽い水切れにしてしまいましたので、今回はホースをつかってすべての鉢に念入りに行います。
「大阪俗謡による幻想曲」
大栗裕:朝比奈隆:大阪俗謡による幻想曲(チューリッヒ・トーンハレライヴ) - YouTube
昨晩くらいからずっと頭のなかでこれが鳴っています。
おそらくはじめて聴いたのは吹奏楽の太鼓叩きとしてどつかれていたころですが、なんともつかみどころがなく当惑したのをおぼえています。ただ、誰でも知っている人気曲でしたから、意味が分からない自分のおつむが馬鹿なんだろうとおもったものです。
急に腑に落ちるようになったのは(もともとのオリジナルである)オーケストラ版や、(吹奏楽版であっても)オーケストラ版を意識した演奏に触れるようになってからでした。
演奏時間の制約から来るはやめのテンポ設定からはなれ、ふわふわとした雰囲気や、どこか怖さすら感じます。威勢がいいばかりではなく、威厳があります。
大栗裕 大阪俗謡による幻想曲 1975 10 3 スイスチューリヒ - YouTube
おそらくはFM放送音源だろうとおもうのですが、冒頭に大栗さん自身による解説が公開されています(youtubeで公開されたかたに大感謝)。これによれば「直接採譜したわけではなく、頭にこびりついた幼少時からの記憶であるとのこと。
大栗裕の音楽の「濁々と濁った響き」(片山杜秀)は、透明度の高い調性音楽に慣れた耳に「新奇」(木村吉宏)な印象を与える。しかしこうした音響を実現する4度やペンタトニックの堆積という作曲技法それ自体は、1956年の日本人作曲家の管弦楽作品として目新しいものではない。この作品の神戸での初演を聴いた上野晃は「音素材そのものの展開には貧しさを免れ得ず、観光ポスターのような単に表面的な日本調を音で外国に紹介する安易さに、僕は聊かはづかしい思いをさせられた」(上野 1956: 121)と感想を述べている。
大栗はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団演奏会の成功を受けた朝比奈隆帰朝特別演奏会(注16)のプログラムで、「この曲は異邦人に異国趣味を起させ得るのは、作者の意図であって、この音楽的な感動が直ちに芸術的な価値と結びつくものとは思ってもみなかった」と応じつつ、次のように書く。
無理に云えば此の効果ばかりを狙った作品の好評は、作者が予め計算し、設定した効果が、効果そのものとして働いたということ、そして次に日本伝統の音楽もその取扱いの如何によっては、西欧人の理解と共感をある程度得られるという可能性を立証したことであると思われる。この後者の問題は我々にとって非常に重要であって、今後の日本の音楽が当面する一つの方向であるとも考えられる。(大栗 1956b)
上野が作曲技法の質(「音素材そのものの展開」の「貧しさ」と「観光ポスター」を思わせる「安易さ」)を問題にするのに対して、大栗は聴き手に対する効果を強調する。「観光ポスター」風のペンタトニックは「予め計算し、設定した効果」であり、それが「西欧人の理解と共感をある程度得」たことが重要だったのである。
素晴らしい論文があるのを発見しおもわず読んでしまいましたが、この論文を読むかぎり、吹奏楽でみられるようなカット有りはやめのテンポでドンチャカ系の演奏も作者の意図であることがわかります。なかなか興味深いところです。