9日の運動経路
文書作成が間に合わなかったので、こちらに掲載します。
6.6km、2時間半かけて「神社めぐり」をしました。
「陽光台」バス停で下車して、1社目の「大山祇神社」をめざします。
向かう道の途中に石灯籠とお汐井台があり、さらにその道を登っていくと、つきあたりにお宮があります。途中、鳥居があったのですが、その脇に腰かけて複数のかたが休憩(たぶん間伐途中の休みかな?)をとっておられ、鳥居は撮影できていません。
2社目の「須賀神社」は、踏み石をたしかめながらなんとかよじ登るようなところで、こんなところで転落したらエライことになるため、しゃがみこんで四つん這いで下ります。
3社目は、福岡県神社誌では熊野神社ですが、現地に行くと社号は「三社宮」です。熊野三山を祀るお宮とのこと。隣には不動明王のお堂があり、もしかするとむかしは一体で運営されていたのかもしれません。
4社目の「埴安神社」は、場所はわかったのですが厳重に害獣除けの金網が設けられており、金具をよけて勝手に入るのはためらわれたため、遠景のみしかありません。
5社目の「三社宮」です。ここも、3社目の三社宮同様、福岡県神社誌では熊野神社として記載があります。
途中、内野小学校越しに陽光台分譲地をながめます。階段状に開発されてるんですね。あまりこのエリアには立ち寄ったことがない(たぶん20年ぶり)ので、驚いてしまいます。
6社目の「志々岐神社」、参道すぐの鳥居は「天満宮」の扁額があります。PDFでiPhoneに保存している福岡県神社誌を確認すると、明治になって天満宮を合祀したとのこと。そのときに、鳥居ごと移設されたものでしょうか。
最後7社目、「日吉神社」です。ここは現在早良6丁目となっていますが、福岡県神社誌では内野村大字内野とあり、福岡県神社誌でいうどの神社か最初ピンとこなくて少々混乱してしまいました(じっくり由緒を読むとわかります)。
日吉神社境内から、北側を一枚撮影してみました。
おそらく方角的には、能古島か志賀島だとおもうのですが、どうでしょうか?
「陽光台」バス停に戻ってきて、終了です。ここから呉服町までバスで戻りました。
10日の記録
8日から9日にかけて、下関・彦島と福岡市早良区で計12か所訪問できましたので「神社めぐり」の作成をしました。さすがに12ヶ所もあると、8時にはじめて16時過ぎます。2024年の2月24日から3月6日にかけて予約投稿の設定をしました。
以前、いつまで予約投稿の設定ができるのか、という話がありました。
かりに2999年にしても設定できますし、ほぼ1年分スケジュール設定していてもまだエラーになりません。
すでに5420日、1万投稿超えてもまだ制限にひっかからないので、株式会社はてながお父さんしないかぎり、あまり寿命と容量はかんがえなくてよい気がします。
「神社めぐり」シリーズについてのおことわり。
『福岡県神社誌』上巻,大日本神祇会福岡県支部,昭和20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1040130 (参照 2023-03-10)
『福岡県神社誌』中巻,大日本神祇会福岡県支部,昭和20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1040137 (参照 2023-03-10)
『福岡県神社誌』下巻,大日本神祇会福岡県支部,昭和20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1040147 (参照 2023-03-10)
戦前に刊行された「福岡県神社誌」が「国立国会図書館デジタルコレクション」で無償公開され、PDFでダウンロードも可能になりました。いちいち大学図書館にながめに行かなくてもよくなったのを機に「載っているところ行けるかぎりぜんぶまわってみよう」と一念発起してはじめたのが「神社めぐり」シリーズです。PDFダウンロードが出来ることに気づいたのが2019年5月。「神社めぐり」シリーズを本格化させたのは、それ以降です。
社号については福岡県神社誌の社号を基準とし、現地扁額やゼンリン地図記載の社号はそのうしろに( )書きしています。各地をめぐってみると、いちどは無理やり統合されたものが、戦後になって各集落(地区)に復活し祀られ直す事例があったり、地権者が敷地を売り飛ばし上モノの置き場所がなく複数がまとめられてひとつの神社になったりと、ほとんど様変わりしている地域があるのも事実です。途中から現地の社号を先に書くかどうか、悩んだこともありました。
しかし、途中で表記基準が変わるのもどうでしょうか。
「地元で誰もそうは呼んでいない」というご意見はあろうかとおもいます。ただ、県神社誌の該当ページを読めばそう表記されているわけで、上記にリンクを貼っておきますので、ご自身の目でたしかめ「そういう時代もあったのだ」とご理解いただきたいとおもいます。
これは、国家神道(後身は言わずとしれた神社本庁教)が、(記紀に載っている)既製の神様の誰かを祀る神社にすることを指導・強制した文化破壊の痕跡でもあり、戦後、地元での呼び名を復活させる栄誉ある行為が、なぜ必要になったかの記録でもあるのです。
こういうのが漏えいするようでは先がないとおもう。
永守氏は経営会議の場ばかりか、幹部らへの一斉メールで関氏をはじめとする車載事業本部の幹部らを激しく詰めた。A氏の手もとに残るその一部にはこうある。
〈48年前に自宅で日本電産を創業して、死ぬ想いでここまで持ってきた日本電産を君達のような腐り切った人間に潰されてたまるか! 自動車業界からやってきた社長が、AMEC事業(※編集部注:車載事業)をもっともっと良くしてくれるだろうと期待してきたのに、全く逆にどんどん事業が悪化してきて、遂に名ばかり社長のもとで更に倒産への道を歩み出しているのをみて、怒り狂うどころか悲しくて涙が出て止まらない〉日本電産で大量退職 元幹部社員が告白「永守重信会長への過剰な忖度が蔓延している」 | マネーポストWEB - Part 2 (moneypost.jp)
こういうのが外部に出てくるようになると末期症状です。
永守は自書にて重労働について語っており、創業から参加した1人は風邪で40度近い熱があろうが、午前3時・4時まで残業をしようが定刻までに出勤し、事故で足を骨折した時も松葉杖を突いて出勤したという。
永守は自書にて「学生時代に最も憧れていたのはアウトローを牛耳るヤクザの親分」と語っており、暴言とも取れるようなこき下ろしが功を奏する場合もあると語っている。幹部の書類・図面の出来が悪かった時に本人と皆が見ている前で破り捨て「部屋が汚れたので綺麗にしておいてくれ」と言って部屋を出て行ったことがあったという。社員にも事ある毎に怒鳴り、叱りつけてきたといい、中途半端にやらずに相手を震え上がらせ、もうこれ以上怒鳴ったり叱ったりすると夜道で後ろからナイフで刺されるのではないかという極限までやったという。
このやり口をみるかぎり、そもそも後継者を見つけ出すことが不可能だった気がします。ワンマンな一匹オオカミとともに市場から退場して、いずれ消え去るしかないのかもしれません。もしくは、同業他社に買われるのでしょう。
でも、株価が落ちた落ちたといっても、まだ踏みとどまっている印象。
どこの会社とは申しませんが、よそにはこんなのもありますからねぇ。