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ご縁結びのいくたさん - 神戸の安産祈願・恋愛成就・ご縁結びは生田神社
由緒のご紹介 - 神戸の安産祈願・恋愛成就・ご縁結びは生田神社
神功皇后元年(西暦201年)三韓外征の帰途、今の神戸港にて船が進まなくなったために神占を行ったところ、稚日女尊が現れ、「私は活田長峡国に居りたい」と申されたので、海上五十狭茅という者を神主として祀られた。
有名どころなので行っておこうとおもい、はじめて訪問しました。
事前には「玄松子の記憶」の生田神社に関するページを読んだくらいで、予備知識などは無しで、現地に向かいます。
同じ三つ巴紋でも流れるようなデザインのものは、宇佐神宮や石清水八幡宮でみられるものです。このことから、どうやら崇神天皇を祖とする現王朝に関係していることがみてとれます(むろん、高良大社の有馬巴のように社殿の奉納者がつけまくった紋の可能性もあるわけですが)。
境内にあるお稲荷さんをはじめ、山桜の御神紋がいたるところに彫られています。
稚日女尊(わかひるめのみこと)は、日本神話に登場する神である。生田神社(神戸市中央区)や玉津島神社(和歌山県和歌山市)の祭神として知られる。
御祭神の稚日女尊(わかひるめ)の御神紋は、桜のようです。
桜紋をつかうのは、まずなんと言っても木花開耶姫(このはなさくや)や大山祇(月読命)の御一族、そして、崇神天皇の母親であり宝満信仰の対象である玉依姫です。
稚日女尊(わかひるめのみこと)である。「稚く瑞々しい日の女神」を意味し、天照大神の幼名とも妹とも和魂であるともいわれている。
重要なのは、天照大神の関係者にむすびつけて解釈されているということです。ただ和魂とか荒魂というのが、違う人物を無理やりくっつけるときの常とう手段なのはいまさら言うまでもありません。
社殿正面向かって右手の境内社のなかに雷大臣神社があります。元社家である後神(ごとう)家の始祖神とあり、中臣烏賊津連(なかとみのいかつ)を祀るとあります。
意美佐夜麻命の子。天児屋根命十四世孫、あるいは五世孫。神功皇后の審神者。中臣氏の祖。
仲哀天皇に仕え、天皇が崩じると、神功皇后は烏賊津使主、大三輪大友主君、物部膽咋連、大伴武以連の四人の大夫に詔して喪を秘して百寮を率いさせ、 天皇の屍をおさめ、武内宿禰に奉侍させて海路より穴門に遷らせた。
宮司を代々務めた家系の祖先が中臣烏賊津連というだけで、ほぼ答えが出たも同然となり、頭のなかの霧が晴れました。
中臣烏賊津連とは、またの名を中筒男尊、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)。この日記によく出る崇神天皇のことなのです。
ここは、崇神天皇もしくは彼を先祖にもつ一族が、母の玉依姫を祀った神社でした。
主祭神に玉依姫命(たまよりひめのみこと)をお祀りしていることから、魂(玉)と魂を引き寄せる・引き合わせる(依)という御神徳を慕われ、古くから「縁結びの神」として広く信仰されてきました。
もう少し踏み込むなら、この生田神社は、宝満信仰の別バージョンとも言えます。
むろん、都にちかいぶん、規模は大きくなり荘厳・豪勢になるのはとうぜんのことです。逆に言えば、九州から東へ開拓をすすめていた我が先祖さま達が、それだけの発展を成しえたということでもあります。
これは田舎の企業が大きくなり、東京や大都市に本社を移転するようなものと考えればよく、あとからの世代が、もともとの創業の地をみて貧相なのに驚くのと似ています。
神社の裏手にある生田の森に、神功皇后を祀るお宮がありました。
ここはいわば聖母宮(香椎宮)に相当するお宮で、九州王朝から崇神王朝に交代するキーポイントにあたります。
広い境内にはたくさんのお宮があり、一つ一つを眺めるだけでもかなりの時間を要するのですが、面白いのは境内社 大海神社で、海神に猿田彦を充てています。
この由緒を読むかぎり、2つ考えられます。ひとつは、生田神社が出来る以前は、この神戸の地は猿田彦(五十猛命、山幸彦、饒速日:にぎはやひ)が治めた土地であったということ、もうひとつは、この大海神社の祭神が海神 豊玉彦(豊国主、豊前坊、八咫烏、思兼命)と差し替えられているのではないか、ということです。
なかなか貴重な経験をしました。またじっくり時間をみて再訪したいとおもいます。
(2022.05.14訪問)