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香椎宮もまた、祭神が変遷しています。
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近世の『筑前国続風土記』では「神功皇后、相殿左八幡大神、右住吉大神」と記載されており、明治4年(1871年)の神祇官への届け出もそれを踏襲している[7]。その後、大正4年(1915年)に仲哀天皇の神霊が摂社の古宮から本殿に遷座・合祀されたため、以後は祭神を上記4柱としている[7]。
香椎宮の社伝や『福岡県神社誌』の解釈では、元々は仲哀天皇・神功皇后の両方が祭神であったとしており、初めに仲哀天皇の神霊が天皇崩御時から行宮跡地の廟(かつての摂社古宮大明神)に祀られ、次いで神功皇后の神霊が神亀元年(724年)の新廟(現在の本宮)に祀られ、これらの並列する二廟が「香椎廟」と総称されたとする[6]。上記の文献に見える神功皇后祭神説は、後世に神功皇后信仰が盛んになったためとする[6]。
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柳川市大和町鷹ノ尾 聖母宮・宮地嶽神社ほか - 美風庵だより
この日記でもこれまで神功皇后を祀る「聖母宮」を複数取り上げてきました。
その本山にあたるのが香椎宮であり、wikiにあるとおり、元は神功皇后を祀るお宮でした。
大正4年(1915年)に足仲彦(仲哀天皇)を合祀して、強制的に記紀に従って「先祖返り」しています。
神功皇后を祀る神社という性格は、社殿や境内社の配置にも表れています。
正面向かって左手にある武内神社のほんとうの御祭神は玉垂命(=筑紫君)だと考えます。
右手の巻尾神社は崇神天皇です。最初の夫である足仲彦だけが、離れた場所にお祀りされています。
通説では神功皇后の存在を疑問視しています。隠さなければならない存在だからです。
この香椎宮にも巧妙な仕掛けが施されています。
まず、彼女の最初の夫が足仲彦であることは、記紀にも記載があるとおりです。
高良玉垂宮神秘書では、仲哀天皇の死後、玉垂命と夫婦になった旨の記載があります。
さらに住吉大社縁起では、住吉大神と密事ありとされています。
彼女は死後、夫だった3人から取り囲まれてお祀りされているのです。
(注)例として、朝倉市小隈 原田八幡宮の奉納絵馬の画像をUPします。
むかしから、神功皇后の横で武内宿禰が幼い応神天皇を抱く姿は、銅像や絵画になってきました。
この香椎宮にも、応神天皇を抱く武内宿禰像があります。
神社巡りを本格的にはじめるまで、赤貧もこの銅像を見て疑いを抱くこともありませんでした。ああ、武内宿禰と神功皇后の子が応神天皇であり、武内宿禰は玉垂命の別名なのだと……。
神社めぐりをしていると、崇神天皇は玉垂命や神功皇后よりも一世代上でないと帳尻が合わないことに気づきます。二十歳の姉ちゃんに50のおっさんが手を出したくらいの差がないと、どうも合いません。
つまり、白髪のおっさんが武装した姫君の横で子供を抱く姿は、正しいのです。
玉垂命と神功皇后では、ほぼ同世代、せいぜい10歳違いくらいですから、このような絵にはなりません。
武内宿禰とされてきた銅像や絵画のモデルは、崇神天皇で間違いないでしょう。
香椎宮は、神功皇后が現王朝と前王朝をつなぐ存在であることを教えてくれているのです。
残る謎は、なぜこの地なのか、ということでしょう。
赤貧が考えるに、古宮に足仲彦が祀られていたのは間違いないと思われます。やがて夫婦で祀ることになり、足仲彦は国母たる神功皇后の最初の夫という以上の意味をもちませんから、自然と祭祀の重点は入れ替わっていったのでしょう。
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[福岡県神社誌(抄)]上巻1頁
[社名(御祭神)]香椎宮(仲哀天皇、神功皇后 配祀 応神天皇、住吉大神)
[社格]官幣大社
[住所]糟屋郡香椎村大字香椎
[摂社]武内神社(武内宿彌命)、巻尾神社(中臣鳥津大連)
[末社]稲荷神社(保食大神)、印鑰神社(蘇我石川彌命)、朽瀬神社(羽田矢代彌命)、平野神社(大鷦鷯天皇)、高倍神社(武内宿彌氏連)、濱男神社、御島神社(綿津見神)、鶏石神社
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(2020.01.25訪問)