松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

北九州市小倉南区田原3丁目 天疫神社


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清掃の行き届いたきれいな境内です。天疫神社というからにはスサノオさんを祀っているのかとおもっていたら、福岡県神社誌では大己貴(大国主、だいこくさま)と少彦名命(事代主、えびすさま)を祀るとあります。

藤原秀郷 - Wikipedia

福岡県神社誌の記述を信じると、こういう話になります。

  • 天慶年間(938年~947年)、平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷の三男 田原小藤次秀政が豊前国の権介となりました。秀政の赴任した地は疫病で村人が苦しんでいました。
  • 秀政の夢枕に大己貴と事代主が現れ、祀るよう御神託がありました。
  • お宮を建立すると、疫病がおさまりました。村人は領主がかわってもお宮を守り抜き、現在に至ります。

というわけです。

武家家伝_大友氏

能直は頼朝から豊後国の守護職を与えられ、以来世襲することになった。もっとも、豊後に移住するようになったのは三代親泰のときからである。その後、親時-貞能-貞宗と続いた。その間に、親秀の弟から詫間氏・一万田氏・鷹尾氏・田原氏、 頼泰の弟から、戸次氏・木付氏、貞親の弟から入田氏といった庶子家が分かれている。これらが、室町・戦国期、大友宗家の有力家臣化していったわけである。
氏泰のとき、足利尊氏に従い、豊後のほか、豊前・筑後の守護職を得、北九州きっての守護大名になった。

武家家伝_田原氏

田原氏は志賀・詫摩氏と並ぶ大友三大支族(大友三家)の一つで、大友氏初代能直の庶子泰広が始祖である。泰広は京都で生まれ、豊後国国東地方に地頭職を得、国東郡田原別府に定住して田原氏を称した。

ただ、藤原秀郷が先祖としても、やはり田原氏は大友氏からの分家筋であり、この由緒がほんとうなのか?という疑問はあります。

藤原秀郷 - Wikipedia

一方、宝賀寿男は、(略)秀郷ゆかりの神社と後裔の諸氏が奉斎した神社は、大己貴命とその眷属神や、毛野氏の遠祖を祀る下毛野国造の奉斎社と重なるものが多いことから、豊沢を下毛野氏後裔、特に下毛野川内朝臣石代の後裔であると主張した。 

そして藤原秀郷の後裔諸氏はもともと大己貴への信仰があったわけで、夢枕云々は創作であり、任地に大己貴と事代主の祭祀を持ち込んだと考えるのが正しいようです。

すると社号だけ、近隣に在るスサノオさんを祀る「天疫神社」からいただいたということになります。

境内社がここにまとめられているのかとおもい近づいてみましたが、そういう感じではありません。神輿庫?倉庫?のようなのです。

こちらに庚申塔が2つ並べられているようにみえます。しかし、そうなると境内社に貴船社と水神様があることになっていますから、本殿に合祀されていないかぎり、現地にモノがありません。

となると、かたほうは庚申塔で、もう片方がほかの祭祀ということも考えられるのですが……。どうも謎です。

福岡県神社誌:下巻162頁
[社名(御祭神)]天疫神社(大名牟遅命、少名毘古那命)
[社格]村社
[住所]企救郡曽根町大字田原字寺山
[由緒](略)
[境内社(御祭神)]貴布禰社、水神社
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2022.04.22訪問)