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まず、現地の案内板をお読みください。
天正15年(1587年)に豊臣秀吉の九州平定の軍勢が九州へ進軍しようとした際は、講和の使いと称して敵情を探らせるべく重臣・恵利暢堯を秀吉の許へ派遣する。秀吉は恵利へ、降伏すれば種実へ筑前・筑後の二国を与え、恵利にも3万石を与えるとした[6]。復命した恵利は、時代の流れを悟って秀吉に従うように諫言したが種実は恵利へ退場を命じ、島津家との義盟に従い秀吉との抗戦を宣告した[6]。これを思い留めさせるべく恵利は諌死に及んだが種実は応じず、島津方に与して秀吉率いる豊臣勢と戦い敗北した。そして籠城中に秀吉得意の一夜城作戦(益富城)により戦意を喪失し、降伏することとなった。
そのうえでwikipediaの記載と読み比べてもらうと、違和感を感じることと思います。
現地で鳥居をみると扁額には「サヤノ神」とあります。石柱には「小夜媛宮」とあるため、どうやら「さよひめ」「さやんかみ」と混濁して信仰されてきたものだと推測が成り立ちます。
社殿の中を拝謁させていただくと、石祠の両脇には、木製のち*こが奉納されていました。いわゆる「抜き身」です。
そもそも「鞘(さや)」と「抜き身」を精選版日本国語大辞典で検索すると、上記のとおり説明がなされており、「江戸時代の俗語」でしかも初出文例が1758年ですから、江戸中期以降の混濁であろうことがわかります。
しかし、ほんとうに戦国時代に秋月勢の名の知れた姫と家老が逃げ延びて絶命したとして、いつの間にか混濁してこういう祀られかたをするというのも、本人としてはどうなのでしょうか。あの世で会えたら訊いてみたい気もします。
福岡県神社誌:記載なし(発見できず?)
[社名(御祭神)]?
[社格]?
[住所]?
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2021.05.04訪問)