美風庵だより

幻の花 散りぬ一輪 冬日の中

愛知県名古屋市中区錦3丁目 朝日神社


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朝日神社

名古屋市中区栄のオアシス 朝日神社へようこそ

由緒
伊勢の神宮神領地(御園)であった、清洲城下、朝日郷に鎮座されていたが、名古屋城の築城に伴い、慶長16年の夏、特に徳川家康公の請願により、正室、朝日姫様の氏神様である当神社を城下町碁盤割りの守護神として、氏子共々本丸の真南の現在地に移築遷座された。
城下町碁盤割りの唯一の神社として、清洲越しの士民の崇敬をあつめた。

こんな都会の真ん中でこれだけの段差があるのは珍しいと思い、下からのぞくと人工地盤でかさ上げされていました。1階部分もなにかに使われているのでしょうか。

清洲越し - Wikipedia

尾張国(現・愛知県)の中心は、長らく清洲城とその城下町であった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い以降、大阪の豊臣氏の勢力に対抗しなければならない政治情勢にあった。徳川家康清洲城を豊臣家対抗の拠点と考えていたが、清洲庄内川水系下流域にあたり水害が多発すること、水攻めされると兵糧に欠くこと、清洲城天正地震液状化したこと、城郭が小規模で大量の兵を駐屯させられないなどの弱点があった[3]。そこで家康の指示の下、慶長14年(1609年)、現在でいう熱田台地の上に、新たに城を築き、新しい都市を開発することとなった。慶長15年(1610年)、西国諸大名の助役による天下普請で、名古屋城の築城が開始した[4]。
慶長17年(1612年)ころには、名古屋城を北端に、南北には現在の本町通が、東西には伝馬町通が敷設され、これを中心に、名古屋城下の碁盤割の町割が実施された。伝馬町通は、東端で飯田街道とつながっていた。碁盤割の実施された範囲は、北は名古屋城に隣接する外堀筋(現在の外堀通)、南は堀切筋(現在の広小路通)、東は久屋町(現在の久屋大通南行)、西は御園町(現在の御園通。伏見通の一つ西筋)の範囲であった。御園町の西側には同時期に堀川が掘削された。この範囲は、現在の町名でいえば、丸の内と錦の地域に相当する。
清洲越しにより、家臣、町人のみならず、神社・仏閣も社寺3社110寺[注 2]、清洲城下の町屋約2700戸のほとんどが移転し、清須城小天守も名古屋に移った。その際町名も清洲から名古屋へ移し、町人は原則として移転時に住んでいた町に居住することとしたとされる[2]。
現在でも名古屋では、清洲越しを経験した旧家であることが、伝統と格式を示すものとされる。

このときに移転してきた3社のうちのひとつが、この朝日神社です。

元々は清州の神宮領であった朝日荘にあった神社で、元からある古い神明社だったことがうかがえます。

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正面向かって左手に「朝日稲荷神社」があり、千本鳥居をくぐると祠が2社ありました。

向かって左手がお稲荷さんでしょうが、もう片方は?

朝日神社の由来・歴史|朝日神社

 明治元年3月、明治政府は神佛判然令(神仏分離令)発令したため、当社より約二丁ほど東の寺の中に村社として鎮座されていた、子守神社・児宮神社を当神社境内に移築、遷座した。  従前の総代を引き続き置き、村社としたが、同一境内に郷社・村社別々に運営していたが色々と問題があって、協議の結果 、村社を摂社にすると共に総代制度を廃止、郷社として一本化した。

どうもこの子守神社・児宮神社がこの祠らしいのです。すると、御祭神の天児屋根命は、この子守神社・児宮神社の御祭神だったということでしょうか。 

[社名(御祭神)]朝日神社(天照大神天児屋根命
[現住所]愛知県名古屋市中区錦3丁目22-21
[創建年]
(2020.11.08訪問)