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福岡県神社誌よりも案内板のほうが短くまとめられていますので、ところどころ省略しつつ引用します。
「太刀八幡宮は、大字大庭の氏神であり、毎年10月25日に祭礼が行われる。
神功皇后は、日向国(宮崎)の熊襲、秋月の羽白熊鷲、筑後の土蜘蛛田油津姫などの強敵を討ち亡ぼし、三韓への遠征のために大庭村の上野原に軍勢を集め、国敵降伏を祈り自らの太刀を奉納して「太刀社」を祀られたのが始まりといわれている。
弘仁14年(823年)、豊前国宇佐八幡宮の霊を移し、社殿を建て「太刀八幡宮」とした」
また、福岡県神社誌には地名の由来として、以下の記述があります。
「御奉納の太刀の銘は乙王丸との古老の口碑により、この地を乙王丸村と名付けた。皇后が剣を抜かれた所を上原村の内抜剣区と呼んで、剣を磨かせたところを磨次と言い、どちらも今は人家が建っている」
非常に興味深い内容です。
まず、神功皇后は羽白熊鷹征伐のために下関・長府→香椎→小郡→秋月と進軍したと考えています。そして土蜘蛛田油津姫征伐を行い、背後の敵を一掃したあと、三韓征伐に向かいます。
位置的には、羽白熊鷹征伐から転じて、土蜘蛛征伐に向かう最中だったのでしょうか。
羽白熊鷹の残党を討ち取った伝承は嘉麻市上山田の射手引神社に残っています。秋月から古処山・馬見山を抜けて筑豊に分け入り、そこから引き返して、ここで戦勝祈願したのでしょう。
……と考えていて、ほんとうに奈良から熊襲征伐のためにやってきたのか?とあらためて感じます。足仲彦が出征しようとした先が畿内であり、背後が騒がしくなり、鎮圧のために引き返したのではないか……。つまり、熊襲征伐として記紀に描かれている話のほんらいの姿は、熊襲の内紛だったのではないか?とも思えるのです。下関・長府に豊浦宮を建てて行宮としてからの記載と、それまでの活動の記載に濃淡がありすぎるのです。前半は創作ではないか……。
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[福岡県神社誌(抄)] 中巻30頁
[社格]村社
[住所]朝倉郡大福村大字大庭字乙王丸
[境内社(御祭神)]志賀神社(少童神)、白峰神社(崇徳天皇)、御太刀塚神社(息長帯姫命)
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(2019.10.20訪問)