松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

朝倉市下浦 王子神社(王子宮)


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現地で鳥居の扁額を確認すると「王子宮」とあります。

9月7日にいちど訪問したのですが、帰宅して福岡県神社誌を確認して驚き、11日の夕方に再訪しました。

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拝殿内の由緒書きによれば、正暦元年(990年)に創建された旨の記載があります。

由緒書きと福岡県神社誌の「由緒」欄記載の内容が似ているのは、元となった資料が同じだからでしょう。ただ、福岡県神社誌のほうが、だいぶ簡略化されています。

玉垂宮から宇佐宮に九州総社の地位が移り、さらに846年の石清水八幡宮創建以降は、宇佐宮も石清水八幡宮の影響下におかれるようになっていきます。990年ごろに敢えて高良山から王子宮を勧請(分社)したというのは、額面どおり受け取るべきかどうか悩むところです。おそらく、改築かなにかの際に勧請しなおしたのでは無いか?という気がします。もしくは、王子宮となるまえに玉垂宮への祭祀があり、それを引き継いでいる可能性もあります。
 
御祭神が多いためぱっと見がわかりにくいのですが、区分すると次のとおりです。

(1)まず、玉垂命の子供9人。「九躰皇子」と呼ばれます。(朝日豊盛命、暮日豊盛命、斯礼賀志命、渕上命、谿上命、那男美命、坂本命、安志奇命、安楽応寶秘命)

(2)八幡大神応神天皇

(3)住吉三神表筒男命中筒男命底筒男命

(4)神功皇后

久留米市御井町 高良大社の境内に高良御子神社があります。

その元宮は、久留米市山川町の高良御子神社です。この山川町の高良御子神社に行くと「王子宮」と鳥居に扁額があります。ここからの勧請とみたとき、興味深いのは山川町の高良御子神社には(1)しかないことです。ちなみに、玉垂宮神秘書では、神功皇后と足仲彦の子供が4人、神功皇后と玉垂命の子供が5人とされています。半分は連れ子ということです。

高良大社には玉垂命のほか、(2)(3)が祀られています。(4)については、足仲彦(仲哀天皇)死亡後、玉垂命と夫婦となったと玉垂宮神秘書にありますから、縁があってお祀りされたものです(もう少し付け加えるなら、筑紫君の足跡を知られないよう、高良大社から神功皇后が消され、宮地嶽神社から玉垂命が消されています)。

となると、ここはほんとうに王子宮なのか?という気がするのです。

要は、玉垂命と九躰皇子が取り替えられています。おそらく、990年の創建というのは、玉垂命と九躰皇子の取り替え、玉垂宮から王子宮への変更だという気がするのです。

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ざっと、境内の配置を図にしてみました。

元は玉垂宮であった可能性を感じる理由のひとつは、門守社の存在です。現在の高良大社では本殿に合祀されていますが、もともとは参道脇の左右にいわば門番として存在していました。

久留米市山川町の高良御子神社では、境内に坂本神社としてまとめられ鎮座しています。

もっとも原型をとどめているのは大善寺玉垂宮で、現在でも楼門の手前に東坂本社・西坂本社の祠があります。

不思議なのは、坂本社と言うのだから玉垂命のお子さんのひとり、坂本命を祀るのかと思っていたら、櫛磐窓神、豊磐窓神とあります。

古事記では、この2神はニニギが天下りしたときに従えた神であり、御門の神とされています。2人併せて天石門別神(あまのいわとわけ)とも呼ばれます。ニニギが従えたとされる他の顔触れは思兼神・手力男神で、この日記でおなじみの名前に書き直すなら、豊玉彦スサノオです。この二人は、高木大神と天照大神のどら息子が従えるには格上すぎる存在といえます。おそらく指導役だったのでしょう。

となると、自然とこの櫛磐窓神、豊磐窓神も、相当な大物だということがわかるのです。

それを、玉垂宮では東坂本社・西坂本社と明示しています。

玉垂命の子 坂本命も、かり出されたのでしょうか。しかも、「あまのいわとわけ」という名は、天岩戸に通じます。

福岡県神社誌を読むかぎり、この王子宮には、さらに古層がうかがえます。
白木神社は、スサノオとその復活を支援した五十猛命こと、猿田彦(山幸彦)が御祭神です。
ところが、それ以外の神社がどれか、まったくわからないのです。黄色に塗りつぶされた3つの位置に、石でできた御神像や石祠があるにはあるのですが、それがどれに該当するか、パッと見て、わかりません。
 
福岡県神社誌を信ずるなら、まず天神社が3社あって、そこに埴安命(大幡主)が居たはずです。

そして、七夕神社と彦星神があったはずなのです。

あまりにしれっと福岡県神社誌に記載されているため、うっかり見落としそうになりますが、彦星神は、香香背男命が御祭神だと書かれています。香香背男命とは、長髄彦(ながすねひこ)の別名です。

朝倉市甘木馬場町 厳島神社 - 美風庵だより

七夕で、なぜ彦星と織姫がわかれなければならなくなったのか。もとは、中国の伝承ですが、日本ではそれにむかしの神様の伝承がかぶさっています。

ja.wikipedia.org市杵嶋姫の父はスサノオであり、兄は、待遇に不満をもち高木大神(高皇産霊神)とドンパチやらかした長髄彦(ながすねひこ)です。

かたや天之忍穂耳は、高木大神の義理の息子にあたります。むかしは一夫多妻が当たり前ですから、よその女と遊ぶのは大目に見るとしても、国中を混乱させた罪人の妹が相手では困ります。強制的に別れさせられてしまいます。
 
戦時中に焼夷弾で丸焼けとなり、戦後に氏子さんの尽力で再建された王子宮には、福岡県神社誌に垣間見られる古層の証拠が、見当たりません。しかし、それでも相当な発見があります。とても面白い神社です。

ただ、彦星がずばり長髄彦では、義兄と義妹の伝承となってしまい、これはこれで座りが悪い……。

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そんな深刻な由来とはうらはらに、じつに楽しそうな絵馬が奉納されています。

平成になってもこうやって誰かが絵馬を奉納する習慣が残っているということは、ほんとうに素晴らしいことです。
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[福岡県神社誌(抄)] 中巻23頁

[社名(御祭神)]王子神社(朝日豊盛命、暮日豊盛命、斯礼賀志命、渕上命、谿上命、那男美命、坂本命、安志奇命、安楽応寶秘命、応神天皇表筒男命中筒男命底筒男命神功皇后
[社格]村社
[住所]朝倉郡馬田村大字下浦字宮崎
[境内社(御祭神)]門守社(櫛磐窓神、豊磐窓神)、松木天神(埴安命)、杉木天神(埴安命)、天神社(埴安命)、天満宮(菅丞相)、七夕神社(棚機姫命)、白木神社(素戔嗚命五十猛命)、彦星神(香香背男命、猿田彦大神道祖神
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(2019.09.07訪問。2019.09.11再訪)