美風庵だより

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朝倉郡筑前町砥上 中津屋神社(砥上神社)


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神功皇后新羅征討の際に頓宮とした「中つ屋」が名前の由来とされる神社です。また、軍に武器の手入れ(刃物を砥ぐ)をさせ戦の準備をしたことが、「砥上」という地名の由来となったとも伝えられています。

足仲彦(仲哀天皇)は、現在の下関・長府に行宮を置き政務をとっていたとされています。そのとき、朝鮮・新羅の扇動により熊襲が襲来したとされており、これが下関・忌宮神社に伝わる数方庭祭の元となっています。

足仲彦の一行は、その後香椎に移動します。そこで内部の意見が分かれました。足仲彦はまずは熊襲征伐を主張しますが、内部にはまず熊襲を支援する新羅を討つべしという意見もあり、紛糾します。

このあたりを、記紀は神にお伺いを立てたとか色々と書いていますが、本当のところはこんなところだったと思います。三韓征伐が神の御託宣であり、それを信じなかった足仲彦は、神の怒りに触れて急死したとされていますが、熊襲の流れ矢で命を落としたとも、小郡市大保にある御勢大靈石神社の伝承にあります。

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御勢大霊石神社 御勢大靈石神社

偶々近臣を従え志気を鼓舞するため戦線を廻られた折、敵の毒矢に当られて此の地にて崩御された。皇后は時恰も激戦中で志気の沮喪をおそれ深く秘して仮に御殯葬申し上げた。
熊襲征伐後軍を纏めて御崩御を布告し、御霊柩を橿日宮に移して発喪された。その後三韓征伐に於て御魂代の石を軍船に乗せ、その石に仲哀天皇の御鎧及び兜を着せて征途につかれ、戦勝御凱旋されて、その石を天皇の御魂代として、大保の郷の殯葬の地に宮柱太敷立て斉き祀られ御勢大霊石と崇められた。

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以上の流れを考えれば、この砥上神社は、未亡人となった忌宮・神功皇后と筑紫君、阿蘇津彦達による弔い合戦の、中継地となった場所とみるのが自然です。

小郡大保からここを中継し、松峽宮、秋月八幡宮と兵をすすめ、神功皇后軍は羽白熊鷹を追い詰めていきます。

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社殿の背後に、複数の祠があります。社殿向かって左手に4つの祠があり、現地の案内板では、若狭八幡宮須賀神社、薬祖神社、愛宕神社とあります。福岡県神社誌では、若狭八幡宮が記載されていません。おそらく、重複と思われて削除されたのでしょう。

御神紋などの手がかりとなるものがないため、どれがどのお宮で、誰を祀るものなのか、全くわかりません。

中をのぞいてみると、向かって左端は皇族や貴族の身なりをして、左に女性の姿があり、右が欠けています。おそらく、これが若狭八幡宮神功皇后仁徳天皇、玉垂命)でしょう。向かって右端は男性が2人で、金山彦(=カグツチ)にもスサノオさんにも見えませんから、これが薬祖神社(大国主と事代主)でしょう。

拝殿を覗くと、天井に立派な龍神さまがひかえています。

社伝では、神功皇后は武甕雷神(タケミカヅチ春日大神=草部吉見=天忍穂耳=英彦山)に勝利を祈ったとありますので、この本殿に祀られているのは、春日大神ではないか、という気がします。

武甕雷神を春日大神と同一と考える理由は、三韓征伐と羽白熊鷹征伐の伝承をもつ、ほかの神社の御祭神と比較してみれば、そう考えざるを得ないからです。
例えば、大己貴神社の御祭神は、大己貴命・天照皇大神春日大神であり、荷原の美奈宜神社は、天照皇大神住吉大神春日大神神功皇后武内宿禰です。

社殿向かって右手にある大きめのお宮2つが、大神宮と八幡宮とされているのですが、これもまたお宮に御神紋がなく、どちらがどちらかわかりません。

現地の案内板のとおり本殿が八幡大神神功皇后住吉三神であれば、両翼にさらに八幡宮がある配置は異様です。左手は仁徳天皇、本殿は春日大神、右手は玉垂命=筑紫君もしくは、阿蘇津彦が最初の配置だったのではないでしょうか。そして残る大神宮は、たぶん聖母宮か忌宮として、神功皇后が祀られていたのでしょう。

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(2019.08.02訪問)