美風庵だより

幻の花 散りぬ一輪 冬日の中

嘉麻市大隈町 北斗宮

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赤貧が子どものころ、すでにこの神社は北斗宮と名乗っていました。

それ以前、1967年に改名が認められるまでは「下益神社」という名前でした。戦前に発行された福岡県神社誌でも、県社下益神社として記載があります。

ある程度の年齢になって、妙見信仰や北斗七星信仰というものの存在を知ったわけですが、なぜこの大隈の地を代表する神社が妙見信仰の神社なのか?と不思議に感じていました。
よそにあるような大黒さまや八幡宮英彦山祇園様ではないのです。

漠然とした疑問をいだきつつ、齢だけはとり、べつに神社の研究でご飯を食べているわけでもありませんから、それ以上、深く考えることもなかったのですが……。

まず、社頭にある案内板から、由緒等を抜き書きしてみることにします。

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祭神 
 天之御中主神  天地創造の中心の神
 伊邪那岐神   天地創造の陽の神
 伊邪那美神   天地創造の陰の神
由緒 
 人皇第三十八代天智天皇の御代(紀元一三三一)若木連と言う人、北斗星の信仰篤く益富山に北斗大明神として勧請し、延命長寿縁結びの神として尊崇を集めたのが北斗宮の起源となる。
 天正六年龍造寺隆信の兵乱によって神殿が焼失するも御神体は樹齢二千数百年の大楠の下に奉安して安泰、以后大楠神社を祀る。
 大楠神社は武運長久事業繁栄の神として尊崇さる。(元禄十年筑前貝原好吉の古文書による)
天正八年三月秋月藩主秋月種実公現社殿を建立す。
慶長年間黒田長政筑前藩主となり当神を筑前十五神の中、一の宮と定め尚歴代の藩主の尊崇篤く年々数々の寄進を受く。 
明治四年政令により下益神社の社名をもって祭祀さる。
昭和八年県社に昇格す。
昭和四十二年十二月四日、神社庁並に福岡県知事の認承により北斗宮と称す。
(略)

境内祭祀神社
 大楠神社、恵比須神社、玉姫稲荷神社、松尾神社
 (社頭由緒石碑より)
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天智天皇と紀元1331年という表記におどろかれる向きもあるかもしれませんが、ここでいう「紀元」は戦前にもちいられていた皇紀なので、660引く必要があります。

すると、西暦671年となり、天智天皇が生きていたとされる時代に合致します。

鎮宅霊符神社 - 美風庵だより

すでに以前の日記でも書いたとおり、妙見信仰や鎮宅霊符信仰は、朝鮮・百済国から亡命してきた王子が日本に持ち込んだものであり、上陸地は八代とされています。通説では百済国の滅亡が660年ですから、ほぼ最初期のころに、この大隈の地にも妙見信仰が持ち込まれたことになるのです。

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八代神社 - Wikipedia

1730年(享保15年)に書かれた『妙見宮実紀』によれば[1]、795年(延暦14年)、横岳頂上に上宮を創祀。1160年(永暦元年)、中宮を建立。1186年(文治2年)に、後鳥羽天皇の勅願で、検校散位(けんぎょうさんみ)大江朝臣隆房により下宮が創建された。

1870年(明治3年)までは妙見宮と呼ばれた。妙見神とは、北極星・北斗七星の象徴である。神道と仏教の両部の宮寺で、広く崇敬を受け、八代、下益城、芦北三郡の一の宮として栄えた。1871年明治4年)、神仏分離令により、天之御中主神国常立尊を祭神とし、社名を八代神社と改められ、県社となった。
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日本三大妙見のひとつとされる八代妙見宮の創建が、795年とされています。それと比較してもどれほど初期のころなのか、おわかりいただけると思います。

北斗宮の拝殿にある御神紋は七曜紋で、北斗七星がデザインされています。

ではなぜこの地に信仰が根付いたのでしょうか。

射手引神社の由緒にあるとおり、熊襲の一党 羽白熊鷹は秋月野鳥から逃げ、益富山で討ち取られたという言い伝えがあります。益富山はむかし、大隈(熊)山とも称されました。熊襲の一大拠点であったことがうかがえます。

むろん、熊襲といっても派閥は複数あります。まず、タカミムスビ(高木大神)の婿となり英彦山に君臨した天忍穗耳(草部吉見)があり、神功皇后や玉垂命(筑紫君)とともに戦った阿蘇津彦のグループもあります。

英彦山のほうは、鷹の羽紋が「並び」でクロスしません。

阿蘇神社に生き残っている阿蘇津彦の系統は、違い鷹の羽紋で、羽が「クロス」します。

羽白熊鷹がどちらの系譜かまでは赤貧も考えがおよんでいないのですが、おそらくは滅ぼされた第三の勢力だったのではないか、と仮定しています。
伏見稲荷に現在も熊鷹社があるほどですから、大物だったのは間違いありません。

亡命した百済国の王子が上陸してきた場所が、八代でした。熊襲の地です。
羽白熊鷹が討ち取られたあと、おそらく配下は土着したのでしょう。熊襲の地に伝わった新しい信仰を、地理的には離れていても、血縁つながりで受容しやすい関係があったのではないでしょうか。

いまでは想像もできませんし、地元で言えば大爆笑されかねませんが、たとえば大隈の中益集落に多い「真﨑」姓は、熊本県玉名郡和水町にも多く存在しているといったことも、一考の余地はあると思います。また、「金光(かねみつ)」「陣上」「石堂」ほか、思いついた範囲で調べてみても、熊本・鹿児島にも目立って存在しています。

「真崎」さんの由来、語源、分布。 - 日本姓氏語源辞典

「金光」さんの由来、語源、分布。 - 日本姓氏語源辞典

「陣上」さんの由来、語源、分布。 - 日本姓氏語源辞典

「石堂」さんの由来、語源、分布。 - 日本姓氏語源辞典

「有馬」さんの由来、語源、分布。 - 日本姓氏語源辞典

「有江」さんの由来、語源、分布。 - 日本姓氏語源辞典

「吉国」さんの由来、語源、分布。 - 日本姓氏語源辞典

大隈の中益や下益集落の姓氏を片っ端から調べて電話帳データと突き合せてみれば、想像以上につながりが発見できるでしょう。

では、謎の若木連さんご一行は、次はどこに行ったのか。

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大内氏 - Wikipedia

日本の武家はいわゆる「源平藤橘」やその他の中央の貴族の末裔を称することが多いが、大内氏百済の聖王(聖明王)の第3王子である琳聖太子の後裔と称している。琳聖太子が日本に渡り、周防国多々良浜に着岸したことから「多々良」と名乗り、後に大内村に居住したことから大内を名字としたとする。

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ひとつの可能性として、山口に向かったかもしれません。現在の山口県を治めた大内氏は、百済国の王子の末裔を称していましたし、妙見信仰の拠点となった寺社が複数存在するところでもあります。

赤貧が子どもの頃、夏も冬もフェルト帽に黒の背広を着て杖をついている老人をよく見かけました。

よく見かけていたこともあり、稲築経由の大隈行き路線バス内で座席を譲ろうとしたところ「年寄り扱いするな!」と叱られ、「あれは誰?」と、同乗していた近所のひとに訊ねました。山口から婿養子に来られた佐藤栄作の従兄弟で、戦後すぐから大隈町(1955年以降は嘉穂町)の町長をされていたかたでした。

(そんな遠いところからわざわざ婿養子とはご苦労なこった)と、当時は佐藤栄作の重要さもよく理解しておらず漠然と考えていましたが、いまにして思えば、移住した先同士の血縁ネットワークが、いまよりはるかに強固に存在していたのかもしれません。

赤貧も、小さいころは日田市内の本家筋の家に、年一度は挨拶に行っていた記憶があります。

曾祖父と一緒に親戚の運転する自家用車に乗り合わせて行ったこともありましたし、小石原のバス発着所(バスの折り返し場に待合小屋があり、近所の個人商店のかたが回数券を売ったり、うどん屋をされたりしていました)まで送ってもらい、杷木でバスを乗り継いだ記憶もあります。
いまはお互い代替わりして交流は途絶えてましたが、昭和のある時期までは、はるかにいまより濃密でした。

妙見信仰で有名な神社は、秩父神社、八代妙見宮、千葉神社、足立山妙見宮といろいろ存在します。

このなかで旧国幣社秩父神社のみで、あとは旧県社です。ずっと、なぜ北斗宮(下益神社)がこれらと同格なのか?と謎に思っていましたし、「筑前国一宮北斗宮」という名乗ったもん勝ち丸出しとしか思えぬ社号標を内心馬鹿にしていました。

ここで、過去の言動を懺悔させていただきます。

射手引神社がやっつける側からみた聖地なら、北斗宮はやっつけられた側の聖地でした。

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本殿の裏手に、3つの石祠があります。これがほんらいの祭祀だったのでしょう。

真ん中の祠には「一万神社」とあります。

すべての神様という意味でしょう。

 (2019.07.07訪問)