松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

出自。

出自の話のつづきです。
英彦山関係者の一人として、英彦山の座主に皇族が降下してきたのが1300年代で、15世紀っていうから1400〜1500年ごろには、遠賀川最上流に鉄鉱山があったらしい。
戦時中、いよいよ資源窮乏したのか、大学の先生と軍隊がやってきて、祖母に「現地を案内せれ」ってやったらしい。
「結局1か月くらい野営しとったんかなあ。鍋とか鎌はつくれてもこの品質じゃ鉄砲はつくれん、って諦めて帰った」とのこと。
 
「なにを見て調べなったですか?」「古文書です」とその時むこうは言ってたらしい。
 
明治以降、当然砂鉄堀りなんかで飯が食えるはずもなく、我が一族も林業・農業・醸造業・不動産業・その他商売・諦めて移住と散っていくわけですが。そのなかで、日田で「珍しいですね!同姓ですか!( ゜_゜;)この名字はそげんないけんですねー」とたまたまどっかの料亭で、商売関係で顔を合わせたひとと盛り上がって、そこの家に行ったら
「うちの近所に本家筋の山があるとですけどね。
 そこにも、家来3人が追手を追っ払ってくれて、その家来を代々の守り神で祭ってる祠があります!
 こげん立派じゃなかけど( ゜_゜;)なんと!」
で、
「大発見大発見!( 〃▽〃)すげーぜ!おい!みんなー!」
という流れで、
先方の家系図で、日田の代官所で一代抱えから秋月藩に出仕し直してそこから先がわかんなくなってるのがあって、恐らくこの系統じゃなかろうか、ということになった。
江戸時代の、いまでいう国家公務員は代々世襲制だったのはご存じのとおりですが、現地雇用の非世襲制のノンキャリ組・下請け組は一代抱えといってたわけです。むろん成績優秀ならここから幹部登用もあったらしいし、優秀じゃなければ一代抱えのはずだけど担当者交代のときにクビ(契約更新なし)になって、他の藩に転職したり、実家の家業の後継ぎしたりしたらしい。
 
なんでここが問題になったかというと、おぢちゃんの本家筋の家、宗門帳がある檀家寺の記録が、江戸時代中期からしかなかった。
いきなり。つまり、檀家寺がこの時点でチェンジしたということ。
移住してきた?身分降下?廃寺?なにかあるけど追いようがない。

言い伝えはあっても、どこから来たのかをそれ以前にさかのぼりようがなかったらしい。
 
ところが、先方の家系図とつきあわせると、途中2世代切れるくらいですむらしい。
 
「大発見!ヽ(^0^)ノすげーぜ」とおぢちゃんの曾祖父とか、同世代の一族のおっさんたち、当時お金出して学者さんに依頼して検証してもらったりしたらしい。
 
で、そこから改めて「本家」「分家」のご挨拶が復活して、おぢちゃんが子供のころまでは毎年日田にごあいさつに行ってた。
 
(~ヘ~;)まあ、これはこれで理屈はとおってるんだけどね。
 
問題は、日田の本家が逃げ散らかして佐賀→田主丸と逃げまくって日田にたどりついたという伝承よりも旧い時期に、すでに鉄山があった記録があるってこと。
そして、「福智社」という名称。
直方に本姓と同じ地名があって、英彦山関係者大移住の一人と考えても理屈とおること。
おぢちゃんちは家紋が3つあるけど、そのなかの一つは、英彦山神宮の神紋と同じ「鷹」。
この場合、日田の本家筋の家の伝承は、江戸時代から庄屋さんやったときに自らの出自を脚色した結果だということになる。
つまり、うちのほうが先か、本当は全く無縁ということじゃないと時系列がおかしくなる。
 
ただ、この説も、昨日書いたとおり「すでにここに福智社という祠があった」という曾祖父より年配だった近所のじいさんの証言があるので、完璧とは言い切れない。
 
まあねえ。
なんせ日田の豆田に草野本家ってあるでしょ。あの草野って、久留米と田主丸のあいだにあるあの草野氏だもんね。
北野のところに神代橋ってあるけど、あの辺りを拠点にして高良山の神官だった神代氏は戦国時代佐賀まで逃げて向こうで戦国領主化してるわけですよ。 
筑後平野から佐賀平野にかけてのあの近辺、戦国時代は大激戦地だらけだから、あっちこっち氏族大移動しまくりやもんなあ。
そうかんがえると、本家の伝承が脚色だとも言えん( ;^^)なんかねー。
 
いずれにしても。
おぢちゃんの実家は、壱岐伊万里唐津の大豪族の末裔か、英彦山関係者の末裔という、いずれをとるにしても、由緒正しいお家にはなるわけでね。そこまで確認できれば十分かな、って気もしなくもない(´▽`*)