松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

嘉穂郡桂川町土師 老松神社(1)

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最後にお参りしてから、どれくらい経つでしょうか。
赤貧がまだ免許をとって数年のころだと思います。

この近くに高校の先輩が住んでいて、飲み会の迎えに行ったおり、準備がまだ出来ておらず、見かけたので立ち寄り手をあわせました。

それ以降、とくに気に留めることもなかったのですが、玉垂宮神秘書と福岡県神社誌をやっと入手して眺めていると、じつは重要な場所だったのだとあらためて気づきました。
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老松神社 (桂川町) - Wikipedia

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創建年代については不詳であるが、社伝によればこの神社がある場所はかつてオオクニヌシスクナビコナが諸国巡回の折に逗留した地であり、その後垂仁天皇の時代に土師氏の一族がこの地に出雲大社の分社として建立したといわれる。
後にオオモノヌシとコトシロヌシを合祀した(年代は不詳)。
創建当時の社名は『土師宮』と称していたが、その後万寿元年(1024年)に土師郷(現在の桂川町一帯)が安楽寺大宰府天満宮)の荘園となった際に菅原道真を合祀し社名を『老松大明神』と改称した。
(略)
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朝倉郡筑前町弥永に大己貴神社があります。大己貴とは、大国主がこの世に居たときの名前であり、死後、追贈された尊称が大国主(=大国のあるじ)とされています。

大己貴神社が「おんがさま」と呼ばれている話は、以前この日記にも書いたと思います。一般的には「大神さま(おおがみさま)」から「おんがさま」になまったと理解されていますが、もう一歩進めて「遠賀さま」だったのではないか、というのが赤貧の仮説です。

スクナヒコナは事代主の幼名で、那国の須玖の王子です。おそらくは、春日市須玖が本貫でしょう。以前この日記にも、甘木恵美須町西宮神社の由来を紹介しました。

筑前町三箇山、飯塚市桑曲、内野、内住を中心に大山祇を祀る神社が多数あります。

田川市郡から嘉麻市、さらに東峰村から朝倉市旧高木村にかけて、英彦山の出先であった高木神社(大行事社)が多数あります。英彦山に祀られるアメノオシホミミと、タカミムスビの娘の子がニニギで、神武のじいさんにあたります。ニニギの嫁は、大山祇の娘であるコノハナサクヤヒメで、このふたつの勢力にまず縁戚関係があります。

そして大山祇の子 大己貴は大幡主一族の縁戚となりやがて大国主となります。

大幡主と縁戚となることで、大国主と事代主の地盤は、直方・鞍手、飯塚・嘉穂、旧筑紫郡、甘木朝倉まで広がります。その南には、筑紫君(水沼君=玉垂命)の勢力圏があり、さらに南には熊襲阿蘇津彦)がひかえています。

わかりにくいのは、国境線のように線引きされているわけではなく、各グループがコロニー(入植地)をつくって勢力を拡大していった点と、互いに通商もあれば通婚関係もあったという点です。海沿いに入植地を広げたグループもあれば、金山彦(カナヤマヒコ)のように鉱山開発集団も居ました。

どこかの国のように権力を掌握したら負け組は皆殺しではなかったため、勝ち組が歴史を編さんするとき、過去の負け組元権力者の故事をどう取り扱うかが問題となります。神武勢力(の最終的な後継である崇神系統)を受け継ぐヤマト王権がとったのは、ぜんぶ自分たちの手柄にでっち上げて物語を創作することでした。だから古代史はわかりにくいし、読んでいて混乱するのです。

(つづく)



 

朝倉市下渕 赤岩宮

goo.gl先日、朝倉市下渕の老松神社にはじめてお参りしました。
そのとき、境内向かって右手に赤磐社というのがあり、気になっていました。
福岡県神社誌をみると、同じ下渕に赤岩宮というのがあって、御祭神は赤龍神とあります。おそらく、これが元宮なのでしょう。

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国道322号線を、「つげ」という料理店があるところで曲がり、先に進みます。途中、何か所か離合できる場所はありますが、延々と車一台分の幅の道が続きます。

ちょうど才田組採石場と立体交差する手前に空き地があるので、そこに車をとめて50mほど歩くと、向かって左手に鳥居が見えます。ここが赤岩宮です。

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石段の途中から、気温が下がります。空気が変わると言ったらよいでしょうか。見た目はどこにでもあるぼろっちい神社なのですが、どことなく明るくよい空気がながれています。

社殿に日足紋のような御神紋がついていたのですが、よく見ると「ひまわり」のようでもあり、日足紋で正解かどうかは、よくわかりません。

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googleマップの航空写真をみてもらうとわかりますが、黄色の丸が、赤貧が車を停めた空き地で、ピンクの丸が赤岩宮の場所です。裏手は才田組採石場なのですが、境内に居る間は、トラックのエンジン音もしません。歩いて裏手に出れば砂埃の砂利道なのに、落ち着いた空間です。

そしてもう一つ驚いたのは、今年はアブラムシ大流行でどこも梅の実がろくについていませんが、この神社の周りの梅は、きちんと実がついています。それだけ地元のかたが手入れをされておられるのか、別格の土地なのかは判断しかねますが……。

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帰ろうと石段をおりると、向かって左手になにか祠があるのに気づきました。近づくと「豊前坊」とあります。先の航空写真で、緑の丸です。

下渕の豊前坊はもっと山を登ったところにあったはずだが……と首をかしげながらお参りすると、現地に案内板がありました。2014年に台風の被害で木が社に倒れかかって破損し、地元下渕区で協議して山から下ろして建て替えたそうです。

 この豊前坊のいわれは、たしか高熱で死にかけている父親の為に息子が夢に現れた神様のお告げをたよりに山中に分け入り、御神水を発見してそこに豊前坊の祠を建てたというものだったはずです。往年は、1万人とも2万人ともいわれる人々が水をくみにやってきていたとも聞きました。(御神水の湧き出ているところから引っ剥がして祠だけ移転したら意味なくない?)とも思いましたが、こうやって車を停めて手をあわせられる場所に移すのも、実際に奉仕をする側からみれば、当然のなりゆきな気もするのです。

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さとやま低山あるき(豊前坊)史跡

明治初期の頃にお話は戻ります。
当時は水を求めてあまりにも多くの参拝者が来るので豊前坊入口付近には宿屋が数軒建っていたようです。私の亡くなった祖母の話では、祖母がちっちゃい頃(明治30年頃)、近在の人々はその日の仕事が終わった後、夜提灯を点けて持丸の山を越えて豊前坊へ参りに行っていたそうです。
夜のうちに往復できない遠方の参拝者が宿屋を利用していました。
まだ幼かった祖母は甘木町の本町地区に住んでいて、夜になると持丸辺りの山を越えて行くたくさんの提灯の灯りを眺めていた記憶があると言っていました。
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細い離合もろくに出来ない道に宿屋……にわかには信じがたい光景ですが、考えてみればネットも電話もテレビもろくにない時代ですから、近隣の噂話パワー全盛のころで、ひとりが効いたとなれば、大挙して押し寄せていたのもわかる気がします。

戦前の資料を読むと、神社やお寺への押し寄せぶりが現代の比ではありません。なぜあれほどの熱狂があったのかは、時代背景といっしょに考えてみないといけないとは思っているのですが……。

(2019.06.09訪問)

 

 

 

折り畳み自転車が気になる。

www.bscycle.co.jp貧しさとともに生きる赤貧です。
赤貧が行きたくなるような神社は、たいてい駐車場もないところが多く、事前に停めさせてもらえそうなところを調べておく必要があります。出来れば、現地での「ラストワンマイル」のために、折り畳み自転車があればいいな、と思うのですが……。

www.bscycle.co.jpしかし、引っ越してきた当時に親戚から買ってもらった自転車も、10年以上の利用でだいぶ痛んできていますし、そもそもこちらこそ買いなおすべきではないか、という気もしています。

金持ちだったらなにも迷わず両方自転車屋さんに注文するのでしょうが、赤貧には……。困りました。

朝倉郡筑前町三箇山 五玉神社

goo.gl内野と弥山の帰りに、筑前町三箇山の五玉神社に立ち寄りました。

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以前にもこの日記に書いた神社です。子宝祈願で有名になりました。子宝のお守りを一体100円で頒布されています。

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個人的にこの神社の本体はこの滝行場だと考えています。ここにはなんともいえない雰囲気があり、修験道の道場であった過去がしのばれます。赤貧もここで滝に打たれたほうがよいかもしれません。

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五つの玉を祀る祠には、菊紋があります。十二菊紋があるので、ここは皇室と関係の或る場所なのだとわかります。御祭神は福岡県神社誌では、大国主(大黒さま)、事代主(エビスさま)、熊野速玉命(イザナギの別称)、アメノオシホミミイザナギとされていますが、おそらくすべて違うと思います。

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ほんとうの御祭神は、この「高貴な姫」のはずです。誰かはわかりません。菊紋なので、皇室関係者(もしくは天つ神の系譜にあたるかた)のはずなのですが……。
(2019.06.08訪問)