美風庵だより

幻の花 散りぬ一輪 冬日の中

朝倉市下渕 赤岩宮

goo.gl先日、朝倉市下渕の老松神社にはじめてお参りしました。
そのとき、境内向かって右手に赤磐社というのがあり、気になっていました。
福岡県神社誌をみると、同じ下渕に赤岩宮というのがあって、御祭神は赤龍神とあります。おそらく、これが元宮なのでしょう。

f:id:bifum:20190609120206j:plain
f:id:bifum:20190609120200j:plain

国道322号線を、「つげ」という料理店があるところで曲がり、先に進みます。途中、何か所か離合できる場所はありますが、延々と車一台分の幅の道が続きます。

ちょうど才田組採石場と立体交差する手前に空き地があるので、そこに車をとめて50mほど歩くと、向かって左手に鳥居が見えます。ここが赤岩宮です。

f:id:bifum:20190609120342j:plain
f:id:bifum:20190609120420j:plain

石段の途中から、気温が下がります。空気が変わると言ったらよいでしょうか。見た目はどこにでもあるぼろっちい神社なのですが、どことなく明るくよい空気がながれています。

社殿に日足紋のような御神紋がついていたのですが、よく見ると「ひまわり」のようでもあり、日足紋で正解かどうかは、よくわかりません。

f:id:bifum:20190609132732p:plain

googleマップの航空写真をみてもらうとわかりますが、黄色の丸が、赤貧が車を停めた空き地で、ピンクの丸が赤岩宮の場所です。裏手は才田組採石場なのですが、境内に居る間は、トラックのエンジン音もしません。歩いて裏手に出れば砂埃の砂利道なのに、落ち着いた空間です。

そしてもう一つ驚いたのは、今年はアブラムシ大流行でどこも梅の実がろくについていませんが、この神社の周りの梅は、きちんと実がついています。それだけ地元のかたが手入れをされておられるのか、別格の土地なのかは判断しかねますが……。

f:id:bifum:20190609121117j:plain
f:id:bifum:20190609121234j:plain

帰ろうと石段をおりると、向かって左手になにか祠があるのに気づきました。近づくと「豊前坊」とあります。先の航空写真で、緑の丸です。

下渕の豊前坊はもっと山を登ったところにあったはずだが……と首をかしげながらお参りすると、現地に案内板がありました。2014年に台風の被害で木が社に倒れかかって破損し、地元下渕区で協議して山から下ろして建て替えたそうです。

 この豊前坊のいわれは、たしか高熱で死にかけている父親の為に息子が夢に現れた神様のお告げをたよりに山中に分け入り、御神水を発見してそこに豊前坊の祠を建てたというものだったはずです。往年は、1万人とも2万人ともいわれる人々が水をくみにやってきていたとも聞きました。(御神水の湧き出ているところから引っ剥がして祠だけ移転したら意味なくない?)とも思いましたが、こうやって車を停めて手をあわせられる場所に移すのも、実際に奉仕をする側からみれば、当然のなりゆきな気もするのです。

----------------------------------------

さとやま低山あるき(豊前坊)史跡

明治初期の頃にお話は戻ります。
当時は水を求めてあまりにも多くの参拝者が来るので豊前坊入口付近には宿屋が数軒建っていたようです。私の亡くなった祖母の話では、祖母がちっちゃい頃(明治30年頃)、近在の人々はその日の仕事が終わった後、夜提灯を点けて持丸の山を越えて豊前坊へ参りに行っていたそうです。
夜のうちに往復できない遠方の参拝者が宿屋を利用していました。
まだ幼かった祖母は甘木町の本町地区に住んでいて、夜になると持丸辺りの山を越えて行くたくさんの提灯の灯りを眺めていた記憶があると言っていました。
----------------------------------------

細い離合もろくに出来ない道に宿屋……にわかには信じがたい光景ですが、考えてみればネットも電話もテレビもろくにない時代ですから、近隣の噂話パワー全盛のころで、ひとりが効いたとなれば、大挙して押し寄せていたのもわかる気がします。

戦前の資料を読むと、神社やお寺への押し寄せぶりが現代の比ではありません。なぜあれほどの熱狂があったのかは、時代背景といっしょに考えてみないといけないとは思っているのですが……。

(2019.06.09訪問)