松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

広島県広島市南区稲荷町 稲生神社

過去に「神社めぐり」に掲載するため作成した文章です。現在ではリンク切れとなっている箇所や、すでに情報が古い部分もありますが、再取材はせず当時のまま掲載します(注記:2024.08.03)


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小さめの敷地に鉄筋コンクリート造3階建ての社殿です。社殿そのものは3階にあり、1~2階はどうやら駐車場や社務所として利用されています。

広島市 編『広島市史』社寺誌,広島市,大正11-14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/965812 (参照 2023-02-24)

この広島市史の記述からだと、もとは天野さんというかたが屋敷に祀っていたお稲荷さんで、のちに大工の忠七さんが居ぬきでそのまま受け継いでお祀りしていたものが発祥とあります。

敷地の高度利用というか、重層化がはかられています。平成になって改築したとのこと。

社殿を正面から撮影できず(たぶん、階段コケ落ちる)、階下の手水舎のところから見上げつつ撮影しました。

開運魔除け、お守り槌

当神社の霊神稲生武太夫公(浅野公に仕官、藝州藩指南役)は妖怪退治で数々の伝説を残しています。公の剣の道の奥義は「何事も臆病にては相叶わず、武は修むべし、剣は抜くべからず。」ということと伝えられています。稲生公の人格と胆力に敬服して忠誠を誓った怪物から授かったといわれる不思議な木槌は公が終生肌身離さず天下天上平定のために使ったといわれ、この槌で「北の柱を三度叩けば、いつでも現れ出て妖怪を退治してやる」といい伝え残したという謂れある槌です。

手水舎に掲げられていた案内板です。

広島のお稲荷さん

浅野公が広島入府の際、勧請し、当稲生神社は豊受大神・大國主命・稲生武太夫公霊神をお祀りしています。五穀豊穣・商売繁昌・厄除けの神様として400年の歴史をもち広島のお稲荷さんとして親しまれ崇敬されてきました。とくに享保18年6月18広島大火災の時、稲生神社と大工・忠七(信仰厚く稲生社の世話人)の家が類焼をまぬかれたことから火災除けの神様としても篤く信仰されています。また、稲生武太夫公は、強く勇敢な妖怪退治と知られ、人々を守ったことから魔除け・強運を招く神様ともいわれています。

上記の「広島市史」は御祭神を倉稲魂命とし、現地案内板は豊受大神と大国主神と稲生武太夫公としています。

稲生 正令(いのう まさよし、享保20年〈1735年〉 - 享和3年〈1803年〉)は、江戸時代中期の武士。備後国三次の住人。のち安芸国広島藩藩士。通称は武太夫、のちに忠左衛門と改める。幼名は平太郎。寛延2年(1749年)の体験に基づくという『三次実録物語』を著す。 

稲生正令 - Wikipedia

 『稲生物怪録』(いのうもののけろく、いのうぶっかいろく)は、江戸時代中期の寛延2年(西暦1749年)に、備後三次(現在の広島県三次市)に実在した稲生正令、通称・稲生武太夫(幼名・平太郎)が16歳の年に体験したという、妖怪にまつわる怪異をとりまとめた物語。 

稲生物怪録 - Wikipedia

稲生武太夫 三次実録物語

奉納の幟旗に水木しげる氏、社頭の奉納提灯に荒俣宏氏、京極夏彦氏、水木しげる氏の名前があるとおり、その道ではたいへん有名なお宮さんです。

しかしどうも、稲生(いのう)さんが稲生(いなり)となって、もとは屋敷神のお稲荷さんと同化していくというのは、なかなかわかりにくい話ではあります。

(2023.02.23訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

2023年2月23日の日録 - 美風庵だより