松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

田川市魚町 風治八幡神社(風治八幡宮)

過去に「神社めぐり」に掲載するため作成した文章です。現在ではリンク切れとなっている箇所や、すでに情報が古い部分もありますが、再取材はせず当時のまま掲載します(注記:2024.08.25)


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筑豊一ノ宮 風治八幡宮公式サイト

さすが旧社格が郷社だけあって、お宮の構えが立派です。

御由緒(略記)

当社は往古伊田(飯田)大神と称し海津見神を祀りて地主神と崇め奉りし社なり、神功皇后征韓凱旋の砌博多湾に上陸宇美の郷を経て嘉穂大分宮より当地に至り穴門豊浦宮へ還御の途上風雨俄に起りし為、社前の石上に御腰を掛け拾い御佩の大刀を献りて伊田大神に祈願あらせられしに暴風雨忽ちに治まり、つつがなく豊浦宮に到り拾いき(此石今尚社前にあり。)
人皇第52代嵯峨天皇の御宇弘仁5年夏大旱魃ありて百穀将に枯れんとせし時香春郡司、僧最澄(伝教大師)をして当社に乞雨祈願せしに潤雨在りて五穀豊穣す。住民大いに喜び神徳をかしこみて長松寿院の辺り(現位置を意味する)に壮厳なる社殿を建せり。
弘仁8年秋神託に依り宇佐宮より神霊を歓請合祀し八幡宮と為す。其の後天正時代の兵火に罹りて右文書等悉く焼失すると雖も神威赫赫として更に衰えず住民挙りて尊崇せり。元和元年国主細川公、荘園の制度を改め手永制度を定む。(上赤、下赤、山浦、大内田、小内田、上今任、下今任、桑原、秋永、安永、伊加利、上伊田、中伊田、下伊田)の以上14ヶ村を合して伊田手永と称し当神社を伊田手永大社と定め崇敬の念篤く大祭には奉幣せらるると共に神役には各村々より出仕せり。
元緑元年国主小笠原忠雄卿、聖后(神功皇后)祈願成就の御神徳にちなみて社号に「風治」の2字を加へ風治八幡宮と称するに至る。爾来藩主の崇敬神社として例祭には必ず代参を派遣し奉幣せらる。尚当宮社司毎年正月小倉城に招へいせられ慶旦の祝盃を賜りし事を例とせり。
明治6年郷社に列せらる
明治41年幣帛供進神社に定める
風治八幡宮

案内板を読むと、次のことがわかります。

  • もともとは海神(海津見神)を祀る神社であった。
  • 神功皇后の聖蹟地となる。「風治」の現社号は神功皇后の故事からとられており、腰掛石が境内にいまもある。
  • 最澄が神社の再興に関わっている。
  • 最澄が訪問して2,3年後、宇佐八幡から勧請をうけて八幡宮に衣替え

祭神の入れ替えが少なくとも1回は行われているようです。

境内入ってすぐのところに、案内板にある腰掛石が祀られていました。

なかなか立派な社殿です。本殿が神明造なのは、(伊勢)神宮の式年遷宮で出た古材を拝受して建てたものとのことで、そのつながりからこの様式が選択されたものとおもわれます。

そもそも境内にはいるまえ、社号標がみえた時点で気づいたのですが、このお宮さん、小笠原藩の関与をしめす三階菱紋がありません。珍しいことです。

福岡県神社誌にある境内社はひとつのお宮「祇園社」にまとめられていました。注連縄で一部扁額がみえませんが、扁額左から恵比須神社、生目神社、須佐神社、五穀神社、大名持神社、塞神社とあります。いちばん左の恵比須神社だけ、神社誌には記載がありません。境内の案内などをみるかぎり、どうやらこの6社で「祇園社」のようです。

封宮です。

 御創建の由来
古来より神社は多くの人々の心の拠り所とし、また様々な祈りを捧げる場所として尊ばれて参りました。しかし、神々に願う内容も時代と共に変化してきています。
封宮には、様々な災いを封じる神様がお祀りされており、原初から変わらぬ悩み事や、時代と共に変化している様々な災いを封じ込める祈願所です。現代において、多くの方々が必要としている御神徳を世に施し、人々の安寧を祈念する場として、また封神様を新たな心の拠り所として頂きたいと思います。
全国で祈願ができる場所は類を見ず、この田川の地に新しい形で誕生いたしました。

御祭神
思兼神(おもいかねのかみ)
久那土神(くなどのかみ)
武内宿禰神(たけのうちのすくねのかみ)

御創建
平成二十七年 四月二十三日 正遷座祭

封宮(ふうじぐう) | 風治八幡宮

2015年というだけあって社殿もまだ新しいのですが、御祭神が気になります。

背景もよくわからず書くのもどうかという気はするのですが、思兼命とは海神豊玉彦(ヤタガラス、豊前坊天狗、筑後では荒五郎水神)の別名であり、ここがもともと海神を祀る神社だったことと符合します。

久那土神は私の理解ではナガスネヒコ本人かその一族で、饒速日命(にぎはやひ。彦火火出見尊とも猿田彦とも五十猛命ともいう)に妹が嫁したというからには饒速日や(饒速日の父である)大幡主の「ファミリー」のひとりだったはずです。

そして武内宿禰公は、高良玉垂命を仮託した存在で、公にできないときにわざとごっちゃにされた人物です。もともと香春岳は高良峯であり、彦山権現と奪い合ったという玉垂宮神秘書の記述からして、この田川・伊田の地もまた勢力圏であった可能性があります。

するとこのおさんかた、八幡宮で上書きされる前の地主神だった可能性があるわけです。元の地主神を封じた痕跡としかみえず、大々的にアピールしていいものなのか?とついかんがえてしまいます。

祇園社や封宮と同じ場所に、お地蔵さんやえびす様、お稲荷さんもまとめて祀られていました。

しょうじきに言うとどういう存在なのかよくわからず、あらためて調べてみる必要がありそうです。

福岡県神社誌:下巻178頁
[社名(御祭神)]風治八幡神社(応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、豊玉姫命、玉依姫命)
[社格]郷社
[由緒](略)
[住所]田川郡伊田町大字伊田字宮山
[境内社(御祭神)]須佐神社(素戔嗚命)、生目神社(平景清霊)、塞神社(猿田彦命)、五穀神社(保食神)、大名持神社(大国主命)
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2023.04.25訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

2023年4月25日の日録 - 美風庵だより