松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

福岡市城南区片江2丁目 阿蘇神社

過去に「神社めぐり」に掲載するため作成した文章です。現在ではリンク切れとなっている箇所や、すでに情報が古い部分もありますが、再取材はせず当時のまま掲載します(注記:2024.08.03)


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御神紋は違い鷹の羽紋で、ここが菊池氏や阿蘇神社にゆかりのある場所であることを示しています。

阿蘇神社

祭神 武岩龍命

由緒
阿蘇神社は、武岩龍命を奉斎し、神社神道に従って、祭祀を行い、祭神の神徳をひろめ、本神社を崇敬する者及び神社神道を信奉する者を教化育成し、社会の福祉に寄与することを目的とし、五穀豊饒、家内安全、交通安全、合格必勝、商売繁栄等の神様として祭られている。

造営記録
元禄二年(一六八九)己中春吉祥日 神殿 宝殿 恭惟
元文三戌午年(一七三八) 禮堂上棟
慶応三年八月(一八六七) 拝殿・渡殿・御供処
平成二十年十月(二〇〇八)再建 社殿・手水舎・社務所 新築 玉垣 

現地案内板はシンプルなものです。

片江・阿蘇神社の創建について(「片江・阿蘇神社創建の謎《第5版》より)

肥後にある阿蘇神社が、なぜ、片江にも在るのか。誰が、いつ、いかなる理由で建立したのか・・・
この謎に関しては、片江が肥後阿蘇神社本社の神領地であったからとか、元寇の頃、あるいは室町時代、阿蘇氏がこの近辺に恩賞地を得たからなど、古文献の記述から、さまざまの憶測もある。が、そうした本社側の当事者によって建立されたのなら、本社に、当然あるべき末社としての記録が、しかし無い。これはつまり非公式に、正式な勧請の手続きを経ずに建立された、ということである。
一方、片江には、古来、『菊池氏が、既存の神社を片江の支部落に移し、その跡に阿蘇神社を建立した。社紋も菊池氏の紋所に由来する』という確かな言い伝えが、これを裏付ける様々の口承と共に伝わっている。
さすれば、ただでさえ排他性の強い当時の村の組織的抵抗を跳ね除け、村びと最大の尊厳、神社を入れ替えるなどの暴挙を、敢えて遂行し得るのは、武力を背景とし、片江を完全に支配できる強大な権力者のみであり、その上で、阿蘇神社本社に関わりをもつ人物となれば、正平十四(一三五九)年の夏、後醍醐天皇の皇子、懐良親王を奉じ、九州の豪族の大半を巻き込んだその規模と死傷者の数において、九州最大の戦い「筑後川の合戦」に勝利し、筑前を制圧、九州の要、太宰府に、「征西府」を打ち立て、以後、十二年間に渡り、九州一円に号令したときの、菊池武光公とその一族をおいてほかにない。武光公はその輝かしい軍功を伴う戦いぶりから、「肥後の大鷹」と称せられる不世出の武人であったが、社寺の造営など、宗教文化面にも、数々の実績を残されたという。その武光公が、父親や、一族の終焉の地に無策であるはずはない。
かつて、元弘三(一三三三)年三月十三日、武光公の父、長時公とその手勢三百余騎が、後醍醐天皇の宣旨のもとに、博多の鎮西探題に北条英時を攻め、少弐、大友氏の違約、裏切りにより惨敗、退却となったとき、待ち受ける敵兵ゆえに、否応なく探らざるを得ない迂回路の一つとなる要所に、片江は位置していた。字、花立の「首無し地蔵」や、駄ヶ原の「赤地殿の塚」など、多くが失われてしまったなかで、片江とその近辺には、今なおこの時の、追われる菊池氏の悲劇にまつわる伝承が残されている。
また、その戦いの折、ごく少年の武光公も、武時公に連れられ、博多に来ていたが、錦の御旗をたなびかせ、わずかな騎馬軍団で、鬼神の如く攻め込んでいき、帰らぬ人となった父の勇姿は、その後、戦乱に明け暮れる一生を余儀なくされた武光公の内部で、次第に神格化し、おそらく阿蘇祭神の化身、自分を勝利へ導く確かな軍神として、尊崇されていったことであろう。
それゆえに、今や「征西府」として、南朝の一大拠点となった太宰府の守護祈願を兼ね、かつての戦死者の鎮魂はもとより、菊池家の定紋を社紋にして本社とは一線を画し、その主祭神と重ねて父、武時公を祭るために、なお騒乱の予想される博多の地を離れ、太宰府や故郷、肥後方面の空の見はるかせる東南の展望に優れた、つまりは武光公をして、「此処しか無い」と確信させたであろう安心の台地に建立されたのが、片江の新・阿蘇神社ではなかったのか。

南北朝の大騒乱に風さわぐ、遠い、遠い日の片江の森に木霊して、次から次に、馬蹄の響きが駆け抜けてゆく。

平成二十(二〇〇八)年十二月吉日 片江の住人 澤野一誠 誌之

歩いて数分のところにある「天神社」社殿内の案内板を再掲します。

これによると菊池武光公が拠点としたさい、自らの祖廟を持ち込んだということになります。

2008年改築というだけあって、きれいな社殿です。

社殿裏手や正面向かって左側に、石碑や石祠が4つあります。さきの天神社にあったとおり、これらが明治政府の命令で各地にあった祠をまとめたものでしょうか。

福岡県神社誌:上巻94頁
[社名(御祭神)]阿蘇神社(武岩龍命)
[社格]村社
[住所]福岡市大字片江字東
[由緒]不詳、明治五年十一月三日村社に定めらる。社説述ぶる所次の如し、当社は鎮座の年代詳ならず、筑前国続風土記に、「肥後の阿蘇の社記に、早良郡山門庄比伊郷阿蘇神領なる事見へたり、今比伊郷片江村に阿蘇神社あり是昔神戸の地なりし故祭れるなるべし。又早良郡司三宅春則等が深く斎きたり三宅氏は阿蘇神の末孫なり。」と記せり。
元文三戊午年六月二十六日の棟札には郡司、加藤半右衛門、郡代、中島専右衛門、代官、木村彦右衛門、山奉行、津田次郎衛門等をも連記せり。
社伝に依れば現今の大字片江字神松寺に鎮座せる老松天神社こそ本社勧請前に於ける古来よりの当地産土神にして天神田と称する祭田あり、又俗習にも老松天神の御神名の「松」と云文字を恐畏し氏子は絶対に松の木の下駄を履かず便所の建築には総て松材の使用を憚る遺風存せり。誠に床しき極なり。
[境内社(御祭神)]小烏神社(武角身命)
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2023.02.20訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

2023年2月21日の日録 - 美風庵だより