13日の記録。
11日に小豆をいただき茹でて冷凍しておきました。さっそく解凍して昼弁当用にごはんを炊きました。タッパー3つ詰めて、残りを朝食にいただきます。
今日持参する黒米入りごはんと見比べて、小豆のはずなのに全体的に茶色く仕上がっています。これ、あまり噛まなくてすむよう豆が割れるまで煮る(紫の色素が壊れる)とこうなるのですが、も少し早めに引き上げておいたほうがよかったかな……という気はします。
それにしても、朝はめしだけ、昼もめしだけ。貧しみしかない……とほほ。
それで?雑談のメモ(1)
きちんと筋道たててまとめる気力がないため、9月7日に知人と行った雑談の記憶にある範囲を記します。裏をとる作業を省いているため内容は保証しません。
夫婦別姓で総裁選だと?(上)
自民党の小泉進次郎元環境相(43)=衆院神奈川11区=は6日、党総裁選(12日告示、27日投開票)への立候補を表明した記者会見で、選択的夫婦別姓制度の導入を巡って、「首相になれば夫婦別姓を認める法案を国会に提出し、国民的な議論を進める」と語った。「議論を続けて30年。もう議論ではなく決着をつける時ではないか。一人ひとりの人生の選択肢を拡大する」と強調した。
「家族の在り方は時代によって変化するということも忘れてはいけない。江戸時代に一般的に氏の使用は許されていなかった。明治9年から31年まで夫婦別姓制度が導入されていた」とも語った。
平成8年に法制審議会(法相の諮問機関)が選択的夫婦別姓の導入を答申して、約30年が経過している。
「子鼠ジュニアが選択的夫婦別姓をやるそうです」
「ほかに騒ぐべきことはいくらでもありそうな気がするんですけどね」
「俺はべつに興味ない話題だけど、あんた元公務員だしなにか言いたいんじゃないの」
「ジュニアがやりたいのは「選択的」夫婦別姓、つまりどちらか片方に合わせてもいいし、両方が生家の姓を名乗ってもいいよって話です。で、ジュニアにどんな参謀がついているのか知らんけど、民法制定前の議論を持ち出してますね。これ、逆にジュニアの立場的に説得材料に使えないんじゃないか?という気はします。
夫婦の氏に関して、妻は夫の身分に準じるので夫家の氏を称するのが穏当だが前例が無く決し兼ねる、として内務省が太政官の判断を仰いだのに対し、1876年(明治9年)3月17日に発令した太政官指令15号において「伺の趣婦女人に嫁するも仍ほ所生の氏を用ゆ可き事/但夫の家を相続したる上は夫家の氏を称すへき事」とした。
(略)
太政官法制局が夫婦別氏制をとった理由について、「妻は夫の身分に従うとしても、姓氏と身分は異なる」「皇后藤原氏であるのに皇后を王氏とするのはおかしい」「歴史の沿革を無視」の3点が指摘されている。一方、この後明治民法公布直前まで、妻が夫家の氏を称するのが慣習だとする地方官庁からの伺いが多数出された。増本敏子らは、太政官指令後も民間の慣例では多くの場合妻は夫の氏を称していた、としている。
なお、太政官指令15号による夫婦を別氏とする規定は、1891年(明治24年)の司法省指令でもそのまま残されている。
まず前提としてむかしはどういう状況だったかという話をします。
たとえば江戸時代の年貢って個人賦課ではありません。集落というか村の代表、名主とか庄屋さんに「これだけ集めてこい」と役人から割り当てがきて、それを村のなかで話し合い、貫目(かんめ)といって互いの資産状況で各人の割り当てを決めるわけです。貧乏人から富農まで同じというわけにはいきませんから。
そして、不作で未達になれば連帯責任を負う。
また、『黒田長興一世之記』によれば、寛永14年(1637年)10月、口の津村の庄屋・与左衛門の妻は身重のまま人質にとられ、冷たい水牢に裸で入れられた。村民は庄屋宅に集まり何とか年貢を納める方法を話し合ったが、もう出せるものは何もなかった。庄屋の妻は6日間苦しみ、水中で出産した子供と共に絶命した。たまりかねた領民は、10月25日ついに蜂起し、代官所を襲撃して代官を殺害した。これが島原の乱の始まりである。
島原の乱だと、庄屋さんの家族、嫁が拷問にあったわけです。何日も水のなかにつるされたりとかする。いまふうに言えば、村長さんの家族が見せしめに折檻されて、こいつを開放してほしかったら割り当ての税金ちゃんと持ってこい、とやられるようなもんです。その怒りが、島原の乱という一揆につながります。
この村への割当制、これがなにを意味するかというと、役人は厳密に個人を識別する必要がありません。村の内部で互いを呼び合う名前はあった。でもとくに罪人にでもならないかぎり、名前は記録されない。個人が税金を払う主体ではありませんから、完ぺきに記録する必要がないんです。ただ、村の代表者である庄屋は、どこの誰か識別しなきゃならないから名前が記録に載る。
明治以降と違うのは、個々人まで厳格な把握をしなかった、この点です。
明治になってお侍さんという身分がなくなった。世襲の軍人&役人集団が解体された。その代わり一般庶民が軍人になったり役人になったりするようになるわけです。結果、個人を特定できなきゃ困ることがらが格段に拡大します。明治初期の調査でお侍さんは人口の6%くらいです。残る94%もきちんと識別できる制度をつくらないといけなくなりました。
そして、税金の単位が村ではなく、個人になります。村に年貢を割り当ててお前らで責任もってかき集めて◎月◎日にここに持ってこい、ではなくなります。個人が稼ぎにおうじて役所に納めに行くものになるわけです。税金をいくらかけるか、誰を兵隊にとるか、個人単位で把握しなきゃいけません。
全国津々浦々の個人を識別する必要がここではじめて生じたわけです。
よくお寺の過去帳で男は「◎◎村◎◎」とあるのに嫁は「女」だ、女には名前すらなかったんだとか言う人がいる。そうじゃないわけですね。昔話に出てくるじいさんばあさんにも名前があったりします。村のなかで通用する互いに呼び合う名前は全員にあった。しかし、個々人まで行政は把握しなくても成り立っていたから、書かれていない。それだけ。
明治政府は政治体制をがらりとつくりかえた。戸籍制度もそのときにはじめたわけですが、夫婦は同姓となるのか別姓なのか全国で疑義が生じます。
いちおう大原則というか645年の大化の改新以降、父親の血筋が優先というルールがあります。太政官指令でいう「歴史の沿革」とは、これを言うんです。
よく夫婦別姓の例にあがる日野富子というひとがいますね。この日野富子というのは、戦後、歴史教科書で教えるときに便宜上ついた名前が「日野富子」で、本人はそういう名乗りはしていません。天皇はじめ目上に対しては「従一位藤原朝臣富子」です。
足利将軍家はご存じのとおり源氏です。だから源氏長者な征夷大将軍なんだけど、大化の改新以来の伝統にのっとって、嫁の富子は父親の血筋、藤原朝臣を名乗るわけです。
これ、少し考えるとわかりますが、天皇も下々も同じルールだったと言えます。かりに天皇の嫁になったからといって天皇と同じ血筋に嫁本人が入ったわけではない。子は天皇の血筋にはいるけど、嫁はそうではないんです。そして、それはどんな身分階級でも同じだという理解です。持って生まれた血筋が、何よりも勝る。ストレートでわかりやすい。
ただ、時代が下るにしたがって、自分の先祖が源平藤橘、源氏、平氏、藤原氏、橘氏のどの氏族なのかわからなくなってくる。originというか発祥というか、起源のわからないひとのほうが大多数になるわけです。
たとえば、福島正則公。最初は平朝臣正則を名乗るわけです。秀吉が天皇から豊臣を賜姓されると、正則公も秀吉から豊臣姓を賜姓されます。すると豊臣朝臣正則と名乗るようになる。そして夏の陣で秀頼が死んでからは、藤原朝臣を名乗るんです。
あんな福島正則公のようなビッグネームでも、もう自分の起源がわかんないわけです。徳川家康だって、一時期は豊臣朝臣家康だけど、源氏長者として征夷大将軍となるときは源朝臣家康ですね。みんな系譜の改ざんやりまくりなんですよ。
なのに、大筋として大化の改新以降のルールは生きている。男系の血筋で名乗る、という。これの取り扱いをどうするか。
すでに起源だの血筋だのわからなくなっている庶民に浸透しているとおり、嫁入り(婿入り)で旦那(嫁)の氏を名乗るとするか、あくまでも大化の改新以来の原理原則に立脚するか。
それを20年以上もめて、最終的には夫婦同姓ということになったわけです。
いわば、庶民の慣行が原理原則に勝ったことになる。この太政官指令、ジュニアに入れ知恵した参謀は昔は夫婦別姓だった証拠にしたいんだろうけど、逆効果になりかねない。まぁ、ジュニアだしこんなもんかとは思いますけど」