松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

福岡市城南区片江3丁目 天神社

過去に「神社めぐり」に掲載するため作成した文章です。現在ではリンク切れとなっている箇所や、すでに情報が古い部分もありますが、再取材はせず当時のまま掲載します(注記:2024.08.03)


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「散歩時犬の乗り入れ禁止」とか「タバコ禁止」の立て看板とともに鳥居があり、扁額は「天神社」です。

本殿の石祠にかぶせるように、拝殿が建っています。

地元郷土史家の研究発表の場になっています。これだけの文字を読むのはなかなかつらいので、リーフレットかなにかにしていただくか、もう少し要点をまとめていただけるとありがたいのですが……。

「ゴザのうえを土足で歩いてよい」とありましたが、さすがに気がひけたので、靴を脱ぎました。

片江・阿蘇神社の創建について(「片江・阿蘇神社創建の謎《第5版》より)

肥後にある阿蘇神社が、なぜ、片江にも在るのか。誰が、いつ、いかなる理由で建立したのか・・・
この謎に関しては、片江が肥後阿蘇神社本社の神領地であったからとか、元寇の頃、あるいは室町時代、阿蘇氏がこの近辺に恩賞地を得たからなど、古文献の記述から、さまざまの憶測もある。が、そうした本社側の当事者によって建立されたのなら、本社に、当然あるべき末社としての記録が、しかし無い。これはつまり非公式に、正式な勧請の手続きを経ずに建立された、ということである。
一方、片江には、古来、『菊池氏が、既存の神社を片江の支部落に移し、その跡に阿蘇神社を建立した。社紋も菊池氏の紋所に由来する』という確かな言い伝えが、これを裏付ける様々の口承と共に伝わっている。
さすれば、ただでさえ排他性の強い当時の村の組織的抵抗を跳ね除け、村びと最大の尊厳、神社を入れ替えるなどの暴挙を、敢えて遂行し得るのは、武力を背景とし、片江を完全に支配できる強大な権力者のみであり、その上で、阿蘇神社本社に関わりをもつ人物となれば、正平十四(一三五九)年の夏、後醍醐天皇の皇子、懐良親王を奉じ、九州の豪族の大半を巻き込んだその規模と死傷者の数において、九州最大の戦い「筑後川の合戦」に勝利し、筑前を制圧、九州の要、太宰府に、「征西府」を打ち立て、以後、十二年間に渡り、九州一円に号令したときの、菊池武光公とその一族をおいてほかにない。武光公はその輝かしい軍功を伴う戦いぶりから、「肥後の大鷹」と称せられる不世出の武人であったが、社寺の造営など、宗教文化面にも、数々の実績を残されたという。その武光公が、父親や、一族の終焉の地に無策であるはずはない。
かつて、元弘三(一三三三)年三月十三日、武光公の父、長時公とその手勢三百余騎が、後醍醐天皇の宣旨のもとに、博多の鎮西探題に北条英時を攻め、少弐、大友氏の違約、裏切りにより惨敗、退却となったとき、待ち受ける敵兵ゆえに、否応なく探らざるを得ない迂回路の一つとなる要所に、片江は位置していた。字、花立の「首無し地蔵」や、駄ヶ原の「赤地殿の塚」など、多くが失われてしまったなかで、片江とその近辺には、今なおこの時の、追われる菊池氏の悲劇にまつわる伝承が残されている。
また、その戦いの折、ごく少年の武光公も、武時公に連れられ、博多に来ていたが、錦の御旗をたなびかせ、わずかな騎馬軍団で、鬼神の如く攻め込んでいき、帰らぬ人となった父の勇姿は、その後、戦乱に明け暮れる一生を余儀なくされた武光公の内部で、次第に神格化し、おそらく阿蘇祭神の化身、自分を勝利へ導く確かな軍神として、尊崇されていったことであろう。
それゆえに、今や「征西府」として、南朝の一大拠点となった太宰府の守護祈願を兼ね、かつての戦死者の鎮魂はもとより、菊池家の定紋を社紋にして本社とは一線を画し、その主祭神と重ねて父、武時公を祭るために、なお騒乱の予想される博多の地を離れ、太宰府や故郷、肥後方面の空の見はるかせる東南の展望に優れた、つまりは武光公をして、「此処しか無い」と確信させたであろう安心の台地に建立されたのが、片江の新・阿蘇神社ではなかったのか。

南北朝の大騒乱に風さわぐ、遠い、遠い日の片江の森に木霊して、次から次に、馬蹄の響きが駆け抜けてゆく。

平成二十(二〇〇八)年十二月吉日 片江の住人 澤野一誠 誌之 

これまで1,000以上の神社を訪問し、福岡県神社誌や各地の案内板をながめてきた目でいうと、支配者がふるい祭祀を整理し自らの祭祀を持ち込んだケース(もしくは自分の都合で地域の祭祀をよそに持って行ったケース)はいちいち数えていてはきりがないくらいあります。義憤に燃える心はわかりますが、そういうものなのです。そして、あらたな支配者が持ち込んだ祭祀が正統となり、旧支配層への祭祀は廃絶します。神社本庁教は、都合が悪いのでこの点に触れません。

片江・天神社(元天満宮)の由来(故高木一雄著「片江郷土沿革史」より)

当天神社の由来に関し高木卓氏の話によれば同氏宅の東方(かつての浦ン谷池(現「浦谷公園」の南側)の西岸)に天満宮の小社在りしを父卯吉氏が屋敷の西隅すなわち八尋庄四郎氏の屋敷(片江を出られたあとは竹やぶとなった)の東隅に移したる由 慶応頃(1865~67年・・・68年は明治元年)のことならん
それを明治十年頃各地に散在せる小社庚申塚等は村社に集祭すべしとの政令でそのときこの天満宮も村社(阿蘇神社)内に移すべく村中総掛かりにて(一間《1・8㍍》に一間半位の極めて古い木造社なりしに付き)これをそのまま荷い行く途中今ある天神さまの所まで来て一息入れようとその前の道で皆疲れを休めたり このとき大穂新平氏が「この神様はここに据わると言い御座る ここに祭るがよろしかるべし もう先には行かっしゃらぬげな」などと言うてついにここの森の内に鎮座となりしが今ある天神社なり
不肖(私=高木一雄)も極く青年でやはり今の小道なる天神の高まりのあぜ道(段々畑の尾根筋に当たり、現在の浦谷公園西側の道はそれを拡張したもの)を芋も何も踏み散らして(水利が無く、作物は乾燥に強い麦やサツマイモが主であった)荷い行きし一人なりしがつまるところ皆が疲労からはや村社まで荷い行く気力失したるを神様のご託宣として正当化せしものでありし随分古き建物なりし(注…大穂新平氏の考えは別にあったのかもしれない)
しかしてその天神さまの堂宇は年月日(数字無記入・・・後述)の大暴風雨にて堂南の大タブノキを吹き折りそれが堂の中心を打ちひしゃぎたる為め(ひしゃぐ=押しつぶす)そのとき更に新築せしものが今のお堂(石造り)なり(注・・・その後、木造の社殿が増築され、現在の社殿は更に平成4(1992)年11月に再建されたもの) このお堂打ちひしゃぎし数分前迄不肖このお堂に雨宿りして居りしが(当時神松寺方向から片江に入ってくる正道はこの天神さまの前を通る細道一本しかなかった)一寸(ちょっと)雨間ありしに付き今ぞと馳せ帰り自宅の敷居を越すとき最も強き「オトシ」を感ぜしが明朝友泉亭の役場に出勤時(注・・・この記述より大正末期~昭和4《~1929》年間の出来事と思われる。祖父、高木一雄《1862~1952年》は、昭和4年4月1日、福岡市に合併させるまで、樋井川村《東油山、柏原から田島までの、片江区を含む全8区》、最後の村長を務めた)寄りて見れば不肖の避けて居りし個所が倒木の直下となり居りしを見る 正にあのわずかの雨間こそ本祭神の助命なりしと感じたり この地は元「天神森」と称え不肖(私)等が少年時代迄は椎(シイ)を主としてその他大木真に鬱蒼(うっそう)として昼なお暗き森林にて早朝未明に此処を通れば白手拭を被りたる婦人が貯立して居ると言い伝えり これはおそらくこの林相が斯かる言を産んだのであるべし この森の中央に梅の古木ありてこれに注連縄(しめなわ)を張りてありしほか何も無かりしと
この森の樹を或る人が伐採してそのことを神松寺の寺守なるセウセウ尼(地行の某神官の娘にして歳三十位男性的な比丘尼なりしと聞けり)が博多の承天寺(じょうてんじ)に告げて八ヶ間敷(やかましく)取り調べられしと(浄泉寺義體和尚の未亡人という婦人の話)
またここにて維新当時片江の大穂伊四郎なる青年が小鳥(ヒヨドリ)を銃殺して役人に咎められその罰として片鬢(びん)を剃られたることありし まだ断髪令以前のことなりし(注・・・藩主《黒田公》の御猟地として片江はなお禁猟区であった また通常はバクチをした者などに対し左側の鬢を五分《1・5センチ》耳際まで剃り下げる刑があった)
以来漸次伐り荒らして今時は一本杉と称うる(以下用紙破損で7文字ほど判読不能)となり春秋二回西組(現在の半田組、西組)の御籠り(おこもり)祭があるのみとなる
(注・・・「片江村の一本杉」として、民話にも取り入れられたこの名物、「天神さまの一本杉」も、上部の葉叢(はむら)に隙間が目立つようになっていき、昭和47《1972》年前後に、ついに伐採。跡には、昭和48年に、西組の八尋勲氏により、樹齢10年ほどのイチョウの苗が植えられ、今では福岡市の保存樹となって現在に至っている)
(以下略)

つまり、地元の郷土史家(氏子会長)の理解では、ここは菅公を祀る神社ということになります。福岡県神社誌とのズレは、役人側がそう強制してしまったのか、地元が敢えて伏せた(隠した)のかは、さすがにこの記述だけでは判然としません。

福岡県神社誌:下巻380頁
[社名(御祭神)]天神社(埴安神)
[社格]無格社
[住所]福岡市大字片江字天神
[由緒]記載なし。
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2023.02.20訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

2023年2月21日の日録 - 美風庵だより