松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

三潴郡大木町福土 住吉神社(住吉宮)

過去に「神社めぐり」に掲載するため作成した文章です。現在ではリンク切れとなっている箇所や、すでに情報が古い部分もありますが、再取材はせず当時のまま掲載します(注記:2024.08.03)


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

http://snk.or.jp/cda/ookityousi/chapter4-2/chapter4-2.html 

1993年発行の大木町誌では無格社扱いとなっていますが、福岡県神社誌では村社としてきちんと掲載されています。

『福岡県神社誌』下巻,大日本神祇会福岡県支部,昭和20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1040147 (参照 2023-02-10)

 お互い資料の確認不足かもしれませんが、福岡県神社誌には「誰が勧請したか」がなく、両方読むことで江上種冬公が勧請したものとわかります。

江上氏は九州の名族大蔵氏の一流で、他の大蔵一族と同様に代々通字として「種」の字を用いている。大蔵氏の祖は漢の高祖といい、大化年中(645~649)に日本に帰化し、漢氏を名乗った一族の後裔と伝えられる。

武家家伝_江上氏

真偽は不明ですが、江上氏は高祖劉邦の末裔を名乗る一族でした。

郷土の先覚者 田中吉政公頌徳表

田中吉政公は天文十七年(一五四八)近江国浅井郡に生まれ、幼名を久兵衛長政十五才で織田信長に仕えた。後、豊臣秀吉に仕え岡崎城主となり十万石を領した。
慶長五年(一六〇〇)徳川家康に従い、関ヶ原の戦役に大功あり、筑後一円三十二万五千石を賜り柳川城に移住した。
入国後は筑後十郡の庄屋長百姓に命じて茅野を開拓させ耕地を広め自らは海岸埋立に着眼し、直ちに大川市新田から大和町中島を経て高田町まで実に三十二㎞の間の汐土居築堤に着手した。
又、久留米より津福町-目安町-山野町-田川町-大角町-横溝町-金屋町-下田町を経て柳川に至る道路を開き、或いは浮島、芦塚、道海島などを開拓し、筑後川の浅流を深めて船舶の便を図った。
その他善導寺村より筑後川の水を引き入れ高良山下を経て、三潴郡を横切り塩塚川に注ぐ大運河を計画していたが事成らずして死去した。ここに公の遺徳を偲び、その概略を掲げて永く偉業を讃えたい。
(土甲呂あたりは当時道路開通によって開かれたと伝えられ住吉神社内に吉政公がまつられている)
昭和五十八年三月 大木町教育委員会

神社についての案内板ではなく、境内に祀られている田中吉政公についての案内板でした。

境内をぐるぐる2周してやっと気づきました。祠に「田中筑後守吉政」とあるので、これが田中吉政公を祀る祠でしょう。

福岡県神社誌にあるとおり境内社が2社ありますが、どちらが祇園社か天満神社か、判別できません。おそらく社殿正面向かって左側(後段の画像)が、祇園社だとおもうのですが……。

しかし、驚くのは「住吉宮」といいながら御神紋は三階松紋です。

宮地嶽神社 – 宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)の公式ホームページです。福岡県福津市に位置する当社は、全国に鎮座する宮地嶽神社の総本宮です。

すでにこの日記をお読みのかたにあらためて説明するまでもなく、三階松紋は高良玉垂命が藤大臣阿部相凾(あべのしょうかん)だった時代の紋章です。足仲彦(仲哀天皇)亡き後、妃となった神功皇后(と朝日豊盛=勝村大神、暮日豊盛=勝頼大神)を祀る宮地嶽神社でも、神紋とされています。

これが崇敬者や社殿を奉納した者に由来するものでなければ、もとは住吉宮ではなく玉垂宮もしくは宮地嶽だったのではないか?という疑念もわきます。

福岡県神社誌:下巻18頁
[社名(御祭神)]住吉神社(筒男三神、菅原道真公、倉稲魂命)
[社格]村社
[住所]三潴郡大溝村大字福土字住吉ノ内
[由緒](略)
[境内社(御祭神)]天満神社、祇園社
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2023.02.09訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

2023年2月9日の日録 - 美風庵だより