過去に「神社めぐり」に掲載するため作成した文章です。現在ではリンク切れとなっている箇所や、すでに情報が古い部分もありますが、再取材はせず当時のまま掲載します(注記:2024.08.03)
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2 土甲呂の話 福土、土甲呂
久留米市から柳川市へ一直線に走る、久留米・柳川街道にある土甲呂は、田中吉政が建設した。この街道を通る旅人の憩う町として出来たものの一つである。土甲呂はずっと昔、土で甲冑を造っていたことより名がおこつたと伝えられている3 島権兵衛の話 福土、土甲呂
佐賀の乱(明治七年)に加わった島権兵衛は、処刑を逃れるため、大角出身の執行平右衛門と共に土甲呂の地に逃れて来た。島は間もなく、ここで傷病死した(死期は不明)。その後、土甲呂地区は高熱病や流行病など次々に病人が出て、多数の人が死んだり病気で悩まされる人が続出したので、地区の人達はこれは島の崇りではないかと、早速彼の霊を祀ったところ、病人は元気になり、その後病人が出なくなったという。又墓の下には、多くの財宝が埋められているという。土地の人は島のことをコンペさんと呼んでいる。
神社めぐりの途中で発見したお堂です。このお堂がある辺りは土甲呂(ところ)といい、田中吉政公が街道整備にあたってあらたに設置した町とのこと。
大木町誌には町内の祠やお堂が列記されているだけで位置座標がなくどれなのか不明ですが、安置されている仏さまの姿からして、お大師堂がこれでしょうか?
https://www.city.yame.fukuoka.jp/material/files/group/33/tanakayoshimasa2019.pdf
2019年に開催された展示会のチラシにも、しっかり土甲呂が記載されています。
(2023.02.09訪問)
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。