松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

福岡市早良区飯倉2丁目 飯倉神社(飯倉天満宮)

過去に「神社めぐり」に掲載するため作成した文章です。現在ではリンク切れとなっている箇所や、すでに情報が古い部分もありますが、再取材はせず当時のまま掲載します(注記:2024.07.28)


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注連掛柱のさきに明治生まれにしては真新しい鳥居があり、おそらく復元されたものでしょう。

社号標は「飯倉天満宮」です。

社殿はコンクリート造です。

福岡県神社誌にある大山祗を祀る「山王社」が見当たりませんが、境内の一段高いところに「社日神」が祀られています。

飯倉神社由緒略記

祭神
 天穂日命(菅原家の祖神)
 菅原道真(天神様)
由緒
祭神菅原道真公は学問をもってなる名誉ある家門に生まれ朝廷に仕えられたが不幸にして藤原氏のねたみをうけ延喜元年(西暦九〇一年)太宰府に左遷され此の地などで過されたことに因み土御門天皇の建仁元年二月(西暦一二〇一年)飯倉神社は創立されたものである
飯倉とは景行天皇時代(西暦一二七年)全国に屯倉を置かれたことにより飯倉の地名が生まれその地名を冠して飯倉神社と名付けられたと伝えられている
年間の祭事
元旦祭 元日から三日まで 初詣で
春季大祭 四月二十五日 学業祈願
夏季大祭 七月二十三日 お獅子廻し
秋季大祭 十月十五日 おくんち
注連縄打ち注連掛け 十一月一日
七五三詣で 十一月十五日
新穀感謝祭 十一月二十五日 

この飯倉神社を訪問させていただき、あらためて突き付けられた事実におどろきます。

菅原氏の前身は、天穂日命の子孫で、野見宿禰を家祖とし、葬送を職掌としている土師氏である。天応元年(781年)に古人が改姓を申し出たことから菅原姓を称するようになった。「菅原」の名は大和国菅原邑にちなむ。

菅原氏 - Wikipedia

福岡県神社誌に掲載された神社と、未掲載で訪問済みの神社をあわせると5,375社リストに掲載されています。うち社号が「天満宮」「天満神社」は、817社。なんと15%を超えます。併祀されていたり、境内にある天満宮・天満神社まではカウントしていませんから、訪問してきた実感としては2社に1社は菅公がらみといった印象です。

どうしてこうも菅公が大人気なのか、5年も神社めぐりをやってきて深くかんがえたことはなかったのですが、天穂日命の子孫という点をすっかり見落としていました。

天穂日命は、公式には出雲大社の神職家くらいの扱いですが、じつのところは塩土老翁であり、神皇産霊神であり、国常立命であり、そしてなんと言っても博多のお櫛田さんこと大幡主なのです。菅公は出世に負けて左遷されたとはいえ、旧王朝の流れをくむ名家の家柄だったわけです。

その記憶があったからこそ、どこに行っても菅公だらけという状況が生まれたのか……。やっと気づきました。

福岡県神社誌:上巻92頁
[社名(御祭神)]飯倉神社(天穂日命、菅原神)
[社格]村社
[住所]福岡市大字飯倉字宮山
[由緒]不詳、明治五年十一月三日村社に定めらる。
社説に曰く、御社名飯倉は人皇十二代景行天皇の五十七年諸国に田部屯倉を置き給ひしに基く。即田部は皇室の御領田を耕作する農民にして親王の御領田農耕者を入部と称し其の献穀を納むる倉庫を飯倉と称す当地は其屯倉を置かれし所にして古く田部(和名抄に早良郡内の郷名とあり)郷に属し近く今小田分村入部村あり。
御祭神天穂日命は菅家の祖神にして社伝によれば延喜の昔菅公御左遷の砌り庄、入部、内野、脇山(各所共に夫々遺跡を今に伝ふ)を経て太宰府に赴かれし途次当地に小憩ありし縁故に基き土御門天皇の建仁元年辛酉二月創立すと云ひ伝ふ。
因に此地は菅公の故事により鶏を飼はず古くは六月二十三日、九月十五日の両日祭礼を行へり。
[境内社(御祭神)]山王社(大山祇神)
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2023.02.03訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

2023年2月3日の日録 - 美風庵だより