松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

北九州市小倉南区横代南町4丁目 高倉八幡神社


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はじめて訪問する神社ですが、名前くらいは知っていました。

県指定無形民俗文化財
横代神楽 附神楽面、関係資料一括
昭和43年2月3日指定
国指定重要無形民俗文化財
(豊前神楽の一つとして)
平成28年3月2日指定

毎年10月8日の夜、高倉八幡神社の秋季大祭に奉納される神楽です。元和3年(1617)の創始と伝えられていますが、伝存する文書では正徳5年(1715)に行われたという記録が最も古いようです。
昔は33番(種類)の演目を徹夜で舞っていましたが、現在では米撒き奉幣・御福などの舞神楽、御先・四つ鬼・岩戸開きなどの面神楽、剣の舞・木登りなどの曲芸的要素を加味したもの、座興的な「鯛釣り」それに「湯立て」などが行われています。
豊前神楽の一つである横代神楽は、採物(榊、幣、杖、篠、剣など)の舞を中心とする出雲系神楽のほか、伊勢系神楽や太神楽系のものが混じる旧豊前地方の神楽の特徴をよく残しています。
同時に指定された神楽面の内側に、文久2年(1862)8月の墨書があります。これらの面は、高倉八幡神社の拝殿を造作した宮大工が、竣工を記念して自ら彫り奉納したものと伝えられており、現在、市立歴史博物館に寄託されています。

北九州市教育委員会

ここは、御神楽が有名な神社です。

youtu.be

youtubeでも、一部を見ることができます。

この御神楽は、風水害や干ばつがつづき、藩主細川忠興公が領内の社寺に祈祷を命じたさい、横代村では神楽を奉納することにしたのがはじまりと伝えられています。

鳥居と社号標の手前で、左を向くと、

なかなかお目にかかれないサイズの手水場があります。伊勢の内宮に行くとわかりますが、もともとは川で身体をきよめて神社にお参りするのが本式です。手水舎で手をあらうのは、簡略版です。

注連掛柱のさきに、社殿がみえてきました。

社殿正面です。この日、台風14号がとおりすぎたあとで境内の清掃作業が行われており、なるべくひとが写りこまないようにしたため、画像のアングルがおかしいところがあります。ご了承ください。

御神楽奉納で有名な神社だけあって、構造もちがいます。奥に本殿があり、渡り(幣殿?)があって、舞殿があって、拝殿です。

アングルを少しかえてみました。4枚でおおよその配置がわかるかとおもいます。

この文章を書きながらあらためて見ると、幣殿・渡り・拝殿&舞殿というふうにもみえます。いずれにしても、最低でもひとつ多いのはあきらかです。

youtubeの動画でもあきらかなとおり、拝殿部分から、神楽をながめ、そのさきに神饌(お供え物)が並ぶという配置です。

福岡県神社誌にはありませんが、境内の裏手(裏山?)に藤森稲荷神社があります。

お稲荷さんのお宮から少し離れたところに、石祠もあります。傾斜がこわくて、近づけませんでした。

社殿正面向かって右手には、貴船社があります。

反対側左手には、白髭神社です。

鎮座建武年中足利尊氏、京都三條坊門高倉と萬里小路之間に鎮座之高倉八幡宮を勧請し、横代村産土神とす。

福岡県神社誌を読むと、足利尊氏の所領だった時代があり、そのころに京都から八幡宮を勧請したということがわかります。やがて時代が下り、足利氏の手をはなれ、横代村の産土神として、現在まで生き延びてきました。

三条坊門殿 - Wikipedia

三条坊門殿(さんじょうぼうもんどの)は、現在の京都府京都市中京区にあった邸宅。三条殿・三条高倉殿とも呼ばれ、室町幕府の足利将軍家の邸宅として用いられた。
(略)
三条坊門殿の鎮守としての目的を有した三条坊門八幡宮が造営され、貞治6年(1367年)9月28日には、三宝院光済が三条坊門八幡宮別当に補任された。これが現在の御所八幡宮の起源と考えられている。

足利将軍の邸宅の鎮守が、このお宮の起源というわけです。

御所八幡宮|【京都市公式】京都観光Navi

場所は移転していますが、御所八幡宮はいまも現役です。

福岡県神社誌:下巻139頁
[社名(御祭神)]高倉八幡神社(息長帶比賣命、品陀和氣命、多紀理比賣命、市寸島比賣命、多岐都比賣命、沖津彦神、沖津媛神、罔象女神、大山祇神、猿田毘古神 )
[社格]村社
[住所]小倉市大字横代字宮ノ尾
[由緒]鎮座建武年中足利尊氏、京都三條坊門高倉と萬里小路之間に鎮座之高倉八幡宮を勧請し、横代村産土神とす。其後爲兵亂社頭荒廢、神輿土中に埋り、今神森と云ふ是也。明治六年七月九日村社に列せらる。沖津彦神外三社散在神祠明治十三年六月本社へ合併す。
高淤加美神は同字貴船神社として祭祀、菅原神は同字菅原神社として祭祀ありしを明治四十二年九月十三日合併許可。
祭神猿田毘古神は高淤加美神と二祭神同大字々冬野無格社貴船神社として祭祀ありしを明治四十三年四月九日合併許可。
企救郡誌に記する所の如し。當社草創不詳、祇傳云、往古此村は足利尊氏朝臣、食料の地にして貢倉を営まれけれは京都高倉の御所近く鎭座在し御社を此所に遷せ給ひしにより高倉八幡と云又御所八幡とも稱すとぞ。いにしへは御社も立榮えまして、御祭禮の式ありし事、いちじるし。されど今は衰へたまひ、横代上下の産土神とならせ給ひ、年毎に八月二十四日夜神楽を奏し、同二十五日神幸在を例と慶應のはじめより、九月の始にさだむ、内考に御輿の森とて、野中に三處小き森在、是往古の御旅所の跡なるべし。
[境内社(御祭神)]白髭神社(猿田毘古神)、綿津見社(大綿津見神)、貴船神社(高淤加見神)、菅原神社(菅原大神)、貴船神社(高淤加見神、猿田毘古神)疫神社(大那牟遅神)
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2022.09.22訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

9月22日の日録 - 美風庵だより