松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

福岡市中央区六本松1丁目 掘出稲荷神社


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福岡県護国神社の境内末社です。

末社 掘出稲荷神社
御祭神 倉稲魂神(宇迦之御魂神)
例祭日 初午の日
御神徳 五穀豊穣、商売繁盛、家運繁栄、大漁満足

由緒
大正年間福岡歩兵聨隊兵士の夢枕に立たれ「吾は祐徳稲荷の弟なり 永き年月埋められたままである 今こそ吾を掘り出し吾を祀れ」と御神託が下りその処から稲荷神の御神体が掘り出されました
その史実に基づいて掘出稲荷神社と命名されました
此の地に御鎮座になったのは昭和二十七年九月三日であります

福岡城跡に、むかし福岡歩兵連隊の練兵場がありました。

戦後、軍隊は解散し駐屯するものがなくなり、祭祀が絶えそうになったので、現在の福岡県護国神社境内に、昭和27年に遷座したとのこと。

ということは、兵隊さんが夢にみて掘り出した御神体を、駐屯地(むかしの陸軍でいう衛戍地:えいじゅち)で祀っていたという意味でしょうか?たしかにそれなら、護国神社に縁があったと言えなくもなさそうです。

祐徳稲荷神社 - Wikipedia

鹿島藩初代藩主鍋島直朝が、後陽成天皇の孫・左大臣花山院定好の娘の萬子媛(まんこひめ)を継室とし、その萬子媛が朝廷の勅願所であった伏見稲荷より稲荷大神の御分霊を勧請したのに始まる。萬子媛が嫁ぐ際、父から稲荷大神の神鏡を授けられていた。貞享4年(1687年)、石壁山に社殿を建立し、萬子媛自ら奉仕していたが、宝永2年(1705年)、石壁山窟の寿蔵にて、断食して入定を果たした。以降、萬子媛の諡名から「祐徳院」と呼ばれるようになり、祭神の稲荷神とともに萬子媛の霊験により信仰を集めた。

しかし、祐徳稲荷の弟というのは、どういう意味でしょう?あとから伏見稲荷で分霊されたということか、自分に箔をつけるためにキツネさんが「ぼくはあの祐徳稲荷の弟」と名乗ったか。それは不明です。

ただ、祭祀されている雰囲気をみるかぎり、(弟と言わなくても)なかなかの格のお稲荷さんにおもえます。

福岡県神社誌:記載なし(発見できず?)
[社名(御祭神)]?
[社格]?
[住所]?
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2022.09.21訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

9月21日の日録 - 美風庵だより