松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

2023年5月5日の日録

5日の記録。

三国志9を3年ぶりにやって、詰んで、再スタート

2023年5月4日の日録 - 4日の記録 - 美風庵だより

4日にふとおもいだして、三国志9を久しぶりにはじめました。

もともと、ゲーム内にのこる前回の保存データが2020年なので、なんと3年ぶりでした。おおまかなコマンド操作はおぼえているのですが、こまかい勝手を忘れています。

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適当にやっているとだんだん行き詰ってきました。いったんリセットしてきちんと攻略wikiを読み返し、再度挑戦します。

新君主で、董卓が焼き払い荒野となった洛陽からスタートです。4日の侵攻ルートが赤の矢印で、どんどん攻め込んで版図を拡大したはよかったものの、すっかり後方が手薄になってしまいました。兵隊さんと戦争につかえる武将を中原に戻すのが遅れ、肝心の長安・洛陽が落とされそうになったので、ゲーム続行を断念(笑)

今回は、攻めてきやがった涼州の馬騰をさきに落として、そのまま漢中・益州・南蛮と攻め込んで、マップの西側から片づけ、それから群雄割拠の中原に向かいます。「の」の字の反対作戦です。

右の画像は、内政・民心ぜんぶ最高値、董卓の焼き討ちから完全復活した洛陽です。献帝を擁立しているため最初から信望たかめということもあり、開発はスムーズにすすみます。周囲の都市が戦乱でズタボロなので、復興にカネはかかりますが1年もすれば人口は倍々と増えはじめ、しっかり開発すればしただけの価値があります。

董卓の後がま、長安に逃げ込んだ李傕に攻め込むため、これから徴兵して軍備を整えていくわけですが、まだ、黄色の丸の位置に、宛や許昌方面からの進軍を邪魔する障害物を建築していません。虎牢関も占拠していません。これから外交を行い障害物を設置して、後顧の憂いを断ちます。

(ゲーム内時間)6年がかりで益州・成都まで領地をひろげることができました。

起点である洛陽と最初に攻め落とした長安は、ともに文官(人材獲得専門スタッフ)しか残していませんので、敵国や空白都市から攻め込める進路は、すべて障害物(石兵八陣)でふさいでおきます。

このゲームの特徴として、蜀漢が滅亡したさい、事前に魏が徹底的に地形を研究し、関所以外の経路から成都を奇襲したことを参考に、関所以外の山道からも攻め込めるようになっています。とはいえ、長安からすべての関所と漢中・梓潼をパスして成都まで山道だけを行軍した場合、ゲーム内時間で130日以上かかります。それはそれでたいへんですが、これができるだけでも、戦略の幅がひろがります。

ほかにも、漢中から梓潼まで、漢寿をとおれば剣閣を迂回できてしまうため、ここにも障害物を設置します。

成都には、前述の山道、梓潼からの道(これが通常ルート)、涪水関、の3つの侵攻経路があり、涪水関と成都の位置がちかく、攻城戦では両方からの攻撃をうけます。

もし漢中と梓潼を攻め落とされたら、山道と通常ルートに陣や障害物を設置して、涪水関を上手につかって成都を死守する作戦もできます(自分は攻める側なので追体験できませんでしたが)。

進軍経路がいくつもとれるため、この零陵交趾のあいだも、わざと遠回りして野戦に持ち込んだり、ストレートに一番短い経路で攻め込んだり、いろいろできます。この自由度がこのゲームの面白いところです。

すべての都市の民心をあげ治安と内政重視で開発をすすめ、捕まえた捕虜は斬首せずすべて解放、絵にかいたような仁君プレイをしていると信望が1000を超えます。途中、献帝からの禅譲イベントがあって、国号を「」としました(笑)

今回は、取り合えず劉璋を益州・南蛮から追い出し、ベトナム北部(交趾)まで追いかけまわしたところでいったん終了です。

ゲーム内支配エリア(黄色)以下のwiki内の地図をもとに加工

蜀漢 - Wikipedia

ひさしぶりに丸2日、ほかの用件のあいまに本も読まずyoutubeも視ることなく、ずっとやってしまいました。上記のwikipedia記事にある地図をみるとわかりますが、蜀・呉は人口密集地ではなく、いわば未開地にたてこもった勢力であり、ゲーム内でも城の密集度がまったく違います。

どっか時間をみてつづきをやりたいとはおもいますが、皇帝即位で一区切りついた気分です。中華統一までまだまだ先が長い……。

ほんらいの5日の記録

なにかのおりに要るだろうととっておいたクレカ送付時の封筒など、2008年や2015年ごろの書類などを処分しました。というより、駅前のスーパーと郵便局のポストに行っただけで、ほとんどをゲームに費やしてしまいました。いけませんね……。