松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

山口県下関市豊前田町1丁目 紅葉稲荷神社


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

https://www.88fukusenji.jp/taishi.html

当山のある豊前田の町名は昔、豊前の国の飛び領地の田圃(細川家の領地)だったことからついたと云われ、寺がその中心で一丁目である。細川家の祈祷寺。幕末にその細川家が豊浦郡豊田町八道から現地に移して現在に至る。細川家は豊前小倉出であって長府毛利藩の客家老。(略)境内続きの紅葉(もみじ)神社は、明治までは当山の鎮守で境内を同じくしていたが、廃仏毀釈で分離され別の宗教法人となっている(今では町内の管理)寺の前の谷筋を昔は紅葉(モミジ)谷と言っていた。紅葉の名所だったと思はれる。

参道の横に、明治の神仏分離まで一体で運営されていた真言宗 福仙寺があります。

紅葉稲荷神社ご由緒
   鎮座地・下関市豊前田町一丁目四の三
一、ご祭神
  宇迦之御魂命  (伏見本社神)
  八重事代主命  (恵比須神)
  大綿津見命   (龍神)
  大物主之命  (金比羅神)
二、ご由緒
 源流は往古長門国長府藩毛利甲州守細元公の客家老細川宮内正源広道家の鎮守の神として長府姥ケ懐に奉祀されていたものを、享保十六年一時右神祠を神宮司地内に遷し、越えて寛保元年八月細川家所領の豊前田紅葉谷の現在地に遷座し、細川家鎮守の神として奉祀す。
 寛政八年には式年の大祭が執行され、細川家より代理人として玄蕃太夫参詣し亀山社人形菱形数馬祭主となリ祭事一切を終了し同年豊前田町年寄大木七郎兵衛鍵預りを仰付けられ、以後豊前田町並びに周辺町民の崇敬神として尊崇さる。
 明治八年八月豊前田町民の協力奉仕によって祠を神社造りに改築し落成を祝う神事大祭が行われ豊前田町民との結びつきは益々深まってきたが、その後豊前田町に大火が重なったため、大正十五年四月境内地内高台の現在地に移転改築することとなり厄除け並びびに商売繁昌を願う町民の絶大な協賛を得て現在のような荘重な社殿が造営され盛大な落成遷座祭が執り行われた。
 その後大火に見舞れることもなくいよいよ豊前田町や周辺の町の守護神又商売繁昌の神として崇敬を高めている。
三、ご神徳 家内安全・商売繁昌・海上安全・交通安全・学問勧奨

案内板によれば、1741年に現在地に遷座してきたもののようです。前述の福仙寺ホームページの寺の由緒と少々食い違いがあります。

長府細川家 - Wikipedia

長府細川家(ちょうふ ほそかわけ)は、備中守護細川政春の末裔で、江戸時代に代々長府藩毛利家の筆頭家老を務めた。当主は宮内を通称とすることから細川宮内家とも呼ばれる。
(略)
関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍について、戦後防長二カ国に削封されたため、元通も失領し義弟の毛利秀元の招きで長府に移住して家臣となる。子孫は代々長府藩家老を務め明治維新に至った。

長府細川家が小倉の出ということもなさそうです。どうも謎の多い由緒です。

二の鳥居です。

なかなか立派な社殿ですが、傷み具合をみると持て余している部分もあるようです。

本殿には水色のトタンで覆屋がかけられています。

案内板には境内の若宮大神にかんする説明がありません。おそらくは仁徳天皇だとおもうのですが、御祭神は違うかもしれません。

(2022.07.10訪問)