松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

福岡市中央区西公園 光雲神社


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光雲神社 - Wikipedia

旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。筑前福岡藩祖・黒田孝高(龍光院殿、如水)と、その子で初代筑前福岡藩主・黒田長政(興雲院殿)を祀る。社名は両神の法名から光と雲の一字ずつをとったものである。

光雲神社公式ページ | 黒田官兵衛 ご祭神| 福岡市

光雲神社(てるもじんじゃ)にやってきました。黒田官兵衛とその御子息で初代福岡藩主長政公を祀る神社です。

御神紋は藤巴紋で、個人的にはかっこいい家紋のひとつだとおもっています。

社格 別表神社
祭神
 黒田勘解由次官孝高(如水) 法名 龍光院殿
 黒田筑前守長政 法名 興雲院殿

この神社には、黒田如水公と黒田長政公の霊を祭ってある 如水、長政両公は、全国的に有名な民謡「黒田武士」の育ての親であり、また「福岡」の名付け親でもある
光雲神社という名前は、両公の法名からそれぞれ一字ずつをとってつけた
この神社は如水、長政両公の子孫嗣高公が藩主になられたとき福岡市舞鶴城内(現、平和台)本丸天守台の下に造られた「ところが」明治四年(一八七一年)廃藩置県のさい黒田家が東京に移転されることに決まると歴代藩主の恩恵をしたうあまりに旧藩民有志が当時十一代藩主であった長溥公に懇願し、許可を得て明治四年八月小烏吉祥院(現在の警固神社の近く)に神社を移した

1 明治八年三月県社に昇格
2 同四十年四月西公園に社殿落成移転
3 昭和二十年六月被戦災
4 同四十一年十月現在社殿に鎮座

例祭日
 春の大祭 四月二十日
 秋の大祭 十月四日
 (他小祭日略)

摂社 堅盤神社(黒田重隆公、職隆公、忠之公、阿津姫)
末社 荒津神社(大巳貴命、国常立尊、正哉吾勝尊、国狭槌尊、伊弉冊尊、瓊々杵尊、惶根尊)

藩祖が御祭神の神社なのだからとうぜんではあるのですが、福岡の名付け親って……。物は言いようではあるのですが。

福岡城 - Wikipedia

築城の際に、黒田家ゆかりの地である備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)の地名にちなみ福崎を「福岡」と改めた。普請奉行は野口佐助一成である。城地となった警固村福崎は、古くから商人の町として栄えていた博多の西側に位置する。

故郷の地名を自分の領地につけちゃったことで、結果として、県外に行って博多と福岡どっちが相手に伝わりやすいか考える必要がでたわけで……。それだけここを根城にするという覚悟のあらわれだったのかもしれませんが。

黒田継高 - Wikipedia

藩祖黒田孝高、初代黒田長政の血統最後の筑前福岡藩主となった。

(略)

明和5年(1768年) 本丸天主台東側に藩祖長政公を祀る祠堂に「武威円徳聖照権現」と名付けて創建したのが現在の光雲神社(福岡市中央区)の始まりとされる。

(略)

宝暦13年(1763年)9月、幕府は10代将軍徳川家治の従兄弟にあたる隼之助(一橋宗尹の五男、後の黒田治之)を養子にすることを打診してきた。

先祖を祀るお宮を福岡城内に建てた継高公は、相次いで実子を亡くし、幕府に押し付けられた治之公を7代目藩主に迎えることになります。

鉄筋コンクリート造の立派な社殿です。拝殿でお賽銭箱におかねをいれると、どこからともなく鳴き声がします。鶴の声が再生されるしかけになっていると知らず、あまり奥をのぞき込んでいたから警報が作動したのかとキョロキョロしてしまいました。

あとから来た参拝者のかたが小銭をいれても同じ音がしたため、どうやら賽銭箱にそういう仕掛けがあるのだとやっと理解しました。

社殿の正面向かって右脇が荒津神社で、現在は「大巳貴命、国常立尊、正哉吾勝尊、国狭槌尊、伊弉冊尊、瓊々杵尊、惶根尊」を祀るとされています。

荒津神社
古くからこの山は「荒津山」または、「荒戸山」と呼ばれ、遠い昔には博多湾を警備するための防人がいたと言われています。
ここ荒津山に建立された「荒津神社』は、この山の守り神として「神武天皇」と「大物主神」、海の神「金毘羅神」を祀ったと伝えられています。荒津神社の造営時期の詳細は不明ですが鳥居の柱には、◎左側「天明三年癸卯夏六月十五日」(天明3年は1783年のこと)◎右側「筑前国主源姓賜松平氏黒田長暠建立」(黒田長暠とは、9代藩主黒田斉隆であり、実兄は江戸幕府11代将軍徳川家斉。)と刻まれており、鳥居は江戸時代「荒戸山東照宮」がこの地にあった頃に作られたと考えられています。
徳川家康を祀る壮麗をきわめた荒戸山東照宮は、承応元(1652)年に完成しました。文化9(1812)年写「福博古図」にも往時の様子が伺えます。

元は、神武天皇、大物主、こんぴらさんを祀っていたとのこと。

現地は、大きいお宮と小さい石祠が2つ並んでいます。後掲する福岡県神社誌のとおり、荒津神社と日吉神社であろうとおもわれるのですが、どうなのでしょうか。

社殿正面向かって左脇が堅磐神社(かきわじんじゃ)です。

堅磐神社
神社正面の掲額は黒田家第15代・黒田長久公の直筆で「堅磐神社」と読みます。この神社は黒田孝高(如水)の祖父・黒田重隆と父である黒田職隆、2代藩主黒田忠之公、6代藩主・黒田高公の14女・阿津姫が祀られています。

厚姫 - Wikipedia

その後、黒田家菩提寺である圓應寺(福岡市)に厚姫の墓石が建てられ供養されていたが、戦後の混乱期、墓石泥棒により一時行方がわからなくなる事件がおこる。厚姫の墓石は、武家や公家のお墓に多い五輪塔であったが、墓石泥棒の目には「石灯籠」と映ったようで、これを墓石と知らずに引き取った者が、実際に自宅の庭に墓石を配置していた。すると墓石を配した家系には不幸が起こり、ことごとく途絶えてしまった。何かの祟ではとの噂がたち、それでは寺で預かってもらうのが一番との話となり、厚姫が亡くなった200年目に偶然、圓應寺に戻ってきた。(この話は当時の西日本新聞や学研の月刊ムーにも掲載)
また、厚姫は光雲神社(福岡市中央区)の摂末社堅盤神社にて黒田重隆、職隆、忠之とともに祭神四柱の一人として祀られている。なぜ厚姫が神格化されたのか詳細は不明。

福岡県神社誌:上巻64頁
[社名(御祭神)]光雲神社(黒田孝高、黒田長政)
[社格]県社
[住所]福岡市荒戸町字宮床
[由緒]当社御祭神は藩主黒田氏の祖先勘解由次官孝高其子侍従筑前守長政の神霊にして其裔孫旧藩主黒田嗣高代より福岡城内に勧請したるものを明治以来旧藩主四民恩澤を追慕し、明治四年廃藩置県の際黒田家東京へ移転せらるるに及び有志等十一代の藩主故従二位長溥公へ懇願し其の筋の許可を得て明治四年八月十九日旧社地たりし小烏吉祥院跡へ旧福岡城内本丸天守台下の祠堂より奉遷し、両公の法謚(孝高公-龍光院殿 長政公-興雲院殿)の各一字を採りて社号を光雲神社と改め衆庶初めて参拝することとなれり。同五年九月村社に列せられ、其の後筑前国内各郡区の旧士民総代より出願し同八年三月二十日県社に昇格、明治三十九年七月二十七日当所に移転許可、明治四十二年四月一日社殿新築落成につき移転遷座す。
[境内社(御祭神)]記載なし。
[摂社(御祭神)]堅盤神社(黒田重隆公、黒田職隆公、黒田忠之公、黒田綱之公、黒田阿津姫)
[末社(御祭神)]荒津神社(神武天皇、大物主神、金刀比羅神)、日吉神社(大己貴命、国常立尊、正哉吾勝尊、国狭槌尊、伊弉冊尊、瓊々杵尊、惶根尊)
(2022.05.09訪問)