美風庵だより

風にちる 花のゆくえは 知らねども

うきは市吉井町 妙見社




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googleマップの座標が微妙にずれており2軒ほど手前の民家で戸惑いました。ちょうど鳥居が見えたので、助かりました。

妙見城 - Wikipedia

妙見城(みょうけんじょう)は福岡県うきは市に存在した日本の城(山城)。 
耳納山地内の、鷹取山から耳納山へ続く尾根中心の峠一帯に位置する。標高770mの峠の頂に築かれた城を本城とし、北麓の尾根稜線に築かれた支城を含めて妙見城と総称される。
暦応2年(1339年)に大友氏泰に攻められ落城している。永正4年(1507年)には城主の星野重泰が臣従を拒んだため大友義長に攻められ、城内に内応者が出て重泰は討死にした。その後、天文元年(1532年)には大内義隆に攻められ、城主の星野親忠は戦死し、当城も落城した。 

星野氏 - Wikipedia

『遊覧雑藁 巻之二(108頁~)』『太宰菅内志 筑後の部』等に、鎌倉時代の初期、徳大寺実定卿の子の星野胤実が、多田蔵人行綱の子の猫尾城主黒木大蔵大輔源助能の猶子になって筑後に下り、筑後星野氏の祖となったと記されている。 

現地の案内板(ガラスに私の姿がどうしても映り込んでしまうため、ここには掲載しません)によれば、星野氏は代々妙見様(北斗大明神)を信仰していたとのこと。城の名前が妙見城なのでどのくらい信仰が深かったかわかろうというものです。

落城後、落ち延びた一門(吉竹長者)がこの地に隠れ住み、離散していた家臣・農民が彼の元に集まり、現在の吉井町中心部を形成したともあります。

なにげに読んでいて、驚きました。

吉井町はむかしからあると思い込んでいましたが、まさか戦国末期に町が形成され始めたとは……。

この妙見社は、星野氏の末裔である吉竹長者が一門同胞の繁栄を祈願して、屋敷に妙見様を祀ったのが起源とのこと。ということは、この地に400年前にはあったことになります。

なお、妙見城落城で母の実家が滅亡したことを気にかけた蒲池鎮泰が、名跡を継いで星野氏を名乗り、大友氏に従って各地を転戦します。彼の息子は、秀吉の島津征討軍と戦って討ち死にし、完全に星野氏の本家筋は途絶えます。

goo.gl

第23回新収蔵品展 | アーカイブズ | 福岡市博物館

博多区の吉塚(よしづか)。この地名は、戦国時代、九州北上をねらう島津(しまづ)氏の軍勢と戦って討ち死にした星野吉実・吉兼という武士の兄弟の首塚があったことに由来しています。18~21は、その星野氏の庶流・國武氏に伝来した文書です。戦国時代に博多をおさめていた大友(おおども)氏が、主従の絆を強めるために星野氏に与えた名字状などです。

JR吉塚駅近くにある吉塚地蔵が、首塚があった場所とされています。

かたや名跡を継いで転戦し討ち死にした者もいれば、隠棲して旧家臣・農民とともに復興を目指した者もいる。世のなか、複雑ですね……。 

福岡県神社誌:記載なし(発見できず?)
[社名(御祭神)]?
[社格]?
[住所]?
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2021.09.23訪問)