松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

大分県日田市前津江町柚木 江藤家先祖之碑


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以前から訪問してみたかった「江藤家先祖之碑」をやっと訪ねることができました。

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平成27年(2015年)建立の由緒書きに語り尽くされているので、重要と思われる点だけ要約してみます。

(1)鎌倉時代初期に、清和源氏の一族として紀州田辺から九州に下向。豊前国から上陸し、嘉穂・秋月に移住した。

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「江藤」(えとう)さんの名字の由来、語源、分布。 - 日本姓氏語源辞典・人名力

上記の画像はいつも利用している「日本姓氏語源辞典」で、大字に占める比率を表示したものです。同じ姓が同じ大字に固まっているほど、赤く点で示されます。

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ここでいう嘉穂とは現在の嘉麻市小野谷地区のことでしょう。福岡県内を選択して大字ごとに占める割合の上位を示すと、ほぼ朝倉市、嘉麻市、うきは市ばかりです。隣接地公体に集中しています。

(2)応永年間(1394年~1428年)末期、筑後国生葉郡三春荘に保木城を築城し、藤原政則を祖とし、藤原氏を名乗る。

藤原政則 - Wikipedia

菊池氏は、隆家の孫とされる則隆が肥後国に下向して土着したとして藤原姓(藤原北家)を自称し、各種系図も上もこれに沿った内容となっている[2]。だが昭和34年(1959年)、志方正和は公家が残した日記や『源氏物語』を研究した結果、隆家の後裔とするのは仮冒であり、政則について、肥後住人と記述されていることをもって、政則と則隆の代(延久2年(1070年)頃)に菊池周辺に土着したとする説を発表し、この説が現在まで有力とされており、歴史学者の石井進もこの説を支持している(詳しくは菊池氏の項を参照)。

おそらく、地域の権力構造が変化し、有力者との血縁を創作し、長いものに巻かれる必要が生じたのでしょう。もしくは、源氏が祖先という設定が、後からの接ぎ木であるかです。ふるい系図によくある話ですが、ここで系統のつけかえがみられます。

(3)保木城主 江藤佐太郎は大友家内紛に巻き込まれ城を失い、筑前国上座郡志波村普門院付近に移住。

(4)黒田藩成立に伴い家臣となり、栗山大膳の「黒田騒動」勃発前に、栗山の依頼により豊後国日田郡津江村柚木に移住する。一石峠付近に見張所を設け隣国の異変を監視する役目を担う。

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豊後恨み節 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(15) - 忘れなそ、ふるさとの山河 郷土史編

この由緒書きが正しければ、黒田藩のため天領地に隣国を監視するための見張所を設置して、国境防衛をになっていたことになります。江戸時代における豊後国の支配地図は、上記のブログが詳細に説明されており、参考になります。

(5)天明六年(1786年)ごろに見張所が閉鎖され、その跡地に江藤安兵衛丞盛秀(藤原盛秀入道西念)が大乗典大菩薩を建立。

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墓石に近づくと西念と読めるものがあったため不思議に感じていましたが、どうやらこの江藤盛秀改め藤原盛秀入道西念の墓石なのかもしれません。

(6)家運盛栄を願い明治14年(1881年)に江藤神社を建立するも廃虚となり、「先祖之碑」をあらたに建立し先祖祭りを継続したが、平成7年(1995年)で絶える。

「家運衰退により」と由緒書きにあるのが正直で驚きます。ただ、個人的にいえば、この石碑で歴史が残り、こうやって現地を訪問する者も居るわけですから、むしろ名を遺したと言えないでしょうか。