美風庵だより

幻の花 散りぬ一輪 冬日の中

うきは市吉井町徳丸 由須原八幡神社(由須原八幡宮)


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ゼンリン社の「いつもナビ」では「天満宮」とありますが、現地を訪問すると鳥居は「八幡宮」です。もしここが由須原八幡神社なら、境内に若宮神社があるはずなのですが、見当たりません。

あらためて福岡県神社誌を読み返すと、八幡宮は境内坪数が149坪、天満宮は24坪とあるため、敷地の規模を考えれば、ゼンリンが誤植と断定してよさそうです。

八幡宮なら、御祭神は応神天皇神功皇后・比売大神(or玉依姫)というのが定番ですが、この由須原八幡宮の場合、元宮であろう柞原八幡宮と同じ顔触れになっています。

柞原八幡宮 - Wikipedia

鎌倉時代に書かれた社伝には、創建の由来が以下のように記されている。
 
天長4年(827年)、延暦寺の僧・金亀(こんき)が宇佐八幡に千日間籠り、「天長7年3月3日に八幡神豊前国垂迹する」との神託を得た。天長7年7月7日、大分郡賀来郷に白幡が飛び渡った。金亀はこのことを朝廷に奉上し、承和3年(836年)、仁明天皇の命により豊後国司・大江宇久が社殿を造営した。
 
上記の内容の全てが史実であるかどうかはわからないが、当社が宇佐八幡の豊後国における分祀であるのは間違いなく、宇佐八幡の別宮の一つとして崇敬を受けた。長徳4年(998年)からは宇佐八幡と同様に33年ごとの社殿の造営(式年遷宮)が行われるようになった。

宇佐神宮(宇佐八幡)が大分県にあるため、地元以外のかたはピンと来ないかもしれませんが、あのあたりは豊前国の一部でした。現在は同じ大分県であっても、むかしは国が違ったのです。

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「由原宮」と書いて、江戸時代までこれで「ゆすはらぐう」と読んでいたようです。

福岡県神社誌に由緒の記載がないため、推測で語るよりほかはないのですが、宇佐神宮(宇佐八幡)の所領かなにかだった時代があったのかもしれません。

賀来神社 - Wikipedia

承和3年(836年、出典により852年とも)、豊後国一宮の柞原八幡宮の摂社「善王宮」として創建[2][3]。これを賀来荘の大分川沿いに遷座し、869年(貞観2年)「賀来神社」と称したのが起源とされる[4]。9月1日 - 7日に例祭が開かれ、大分県内で一番早い秋祭りとして「賀来の市」と称される[5]。殊に、卯の年・酉の年の例祭は、柞原八幡宮からの主神が大名行列をなして賀来神社に参られる行列神事「賀来の大名行列」が行われる[1]。なお、大名行列の年の例祭は11日間となる。
祭神
武内宿禰命(例祭時のみ。平時は柞原八幡宮に鎮座。)
建磐龍命

 いま一つの可能性として、元は玉垂命を祀る高良玉垂宮であったが、由原宮に衣替えを強制されたのかもしれません。柞原八幡宮の摂社 賀来神社(善王宮)の由来を読めばわかるとおり、御祭神は武内宿禰と健磐龍です。武内宿禰とは、現王朝(=現皇室)側が九州王朝最後の天皇 高良玉垂命の存在をごまかすため仮託した人物であり、彼が祀られていれば、まず玉垂命と関連がある神社ではないかと疑う必要があります。

すると、柞原八幡宮とは、

(1)仲哀天皇(とその背後の豊後勢)

(2)玉垂命への祭祀

(3)玉垂命とともに神功皇后三韓征伐で活躍した阿蘇津彦(健磐龍)

への信仰が根底にあって、836年に宇佐神宮(宇佐八幡)の分社に衣替えを強制された存在と考えるのが、最もしっくりくるようです。

宗像市多禮 指来(さしたり)神社(孔大寺神社) - 美風庵だより

健磐龍=阿蘇津彦について、むかし書いた文章のリンクを貼っておきます。 

福岡県神社誌:中巻260頁
[社名(御祭神)]由須原八幡神社応神天皇仲哀天皇神功皇后
[社格]村社
[住所]浮羽郡千年村大字徳丸字北屋敷
[境内社(御祭神)]若宮神社仁徳天皇
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2021.04.03訪問)