生活困窮者です。
12月5日、最後に残った古宝殿コースを体験してみるため、高良山に向かいました。
国土地理院の地図を眺めると、ほかにもまだ訪問していない経路があるようです。これもまとめて片付けることにしました。
これが今回歩いた経路です。GPSの感度が良くなかったのか、だいぶブレています。
まずは西鉄久留米駅の1階バスセンター構内のうどん屋で、朝食に肉うどんとおにぎりをいただきます。この後、御井町経由の信愛学院行に乗車し、御井町バス停で下車します。
古墳は九州自動車道建設のために削開されるところを、福岡県教育委員会および市民による道路公団に対する保存運動により、1969年(昭和44年)12月11日から1972年(昭和47年)6月1日まで5次にわたる埋蔵文化財の発掘調査が行われた[7]。調査結果による重要性の認識から、工事は基部の部分的な削開にとどまり、かろうじて遺構の約80%が現地保存された[8]。
まずは、九州自動車道沿いにある「祇園山古墳」に向かいます。学生の頃からここが古墳なのは知っていましたが、普通に近道として歩いており、一部の研究者が卑弥呼の墓と主張していることは、今回はじめて知りました(笑)。卑弥呼どころか九州王朝の大君の墓の可能性のほうが強いのですが、存在してもらっては困る現王朝(現皇室)からみれば、全部削ってしまって欲しかったところでしょう。
愛宕神社の参道から、九州自動車道を眺めます。住んでいるときは深く考えなかったのですが、これ、元は石段を削ったあとなんですよね……。すごいところにつくったものです。
岩不動の横を過ぎ、石段をおりて、山道へ入ります。
冒頭の地図でいう(A)の部分を拡大しました。
地理院地図で「宗崎」と地名(小字)が書かれているところに、点線があります。これは歩道で、歩いて大学稲荷神社までつながっていることになっています。
最初はまだ道があったのですが、それはお地蔵様があったところまでで、そこから先は、ほぼ道ではなくなります。それでもなんとか歩いていると、崩落現場に出くわし、行き止まりとなります。崩落現場をよじ登ったりしている(ちょうどGPS履歴がブレている場所です)と、なんとか獣道にたどり着きます。ひとの歩いた道か、猪か鹿の通り道か、疑惑を感じつつ歩いて行くと……。
地図に記載のあるため池に出ました。地図作成時は一本の道だったのでしょうが、地元のかたが利用するところだけ整備されている状況のようです。もしかするとこの砂利道も、ため池の管理のための道でしょうか。
GPSアプリで確認しながら歩いていると、小屋があります。地図で小さなオレンジの点で表示されている場所のようです。なかに神棚が見えるので近づいていこうとすると、なんと足がズブズブとめりこみます。田んぼや沼に近い感じです。
これがもう少しこぢんまりとした建物なら、お汐井場かなにかと考えるところですが、こんな共同風呂と言ってもおかしくないサイズのお汐井場を見た記憶がなく、何者かわからぬまま、立ち去ることにしました。
坂を登りきると、大学稲荷神社に出ました。
大学稲荷神社にお参りさせていただいたとき、時々自販機で飲み物を買っていました。左側の画像の赤枠のあたりに太陽光の加減で見えなくなっていますが、自販機があります。ちょうど背後に道があったわけで、まったく気づきませんでした。
大学稲荷神社から集落へ下りる石段が、だいぶ掃除がなされていない様子で、不思議に思いつつゆっくり下りて行ったところ、なんと「迂回せよ」の看板がありました。どうやら、高良大社に向かう車道側以外、もう管理するつもりはないのかもしれません。
石段をおりた先には空き家と空き地があったのですが、久しぶりに訪問してみると、なんと建売住宅の建築真っ最中でした。土地が売れたのでしょうか……。
いったん山を下りて麓の集落を歩きながら、高良内コースの登山口である赤星神社(妙見宮)を目指すことにしました。
(2)へつづく