この記事は以下の続編です。
生活困窮者です。
高良山主要登山コース全制覇を目指し、大学稲荷神社から下山し、高良内の集落内を歩いて赤星神社(妙見宮)に向かいます。
住宅が立ち並ぶ舗装路を歩いて行くと、次第に細くなり、右手に神社が見えてきます。ここが、高良内コースの起点です。右手にある赤星神社(妙見宮)を表敬訪問します。
2020年の5月に訪問したときの感想を読み返してみると、いろいろと判っていなかったとつくづく感じます。簡単に言えば、物部とは熊襲・出雲と同じように、現王朝(現皇室)からレッテル貼りされた先支配者というに過ぎません。妙見様(天之御中主:あめのみなかぬし)も饒速日命(にぎはやひ、山幸彦・猿田彦のこと)も現王朝より先支配者である九州王朝のほうに縁があると言え、なにも不思議がる必要もなかったのです。
現王朝は、中筒男尊(なかつつのお)・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)こと崇神天皇が、玉垂命の子 仁徳天皇を押しのけてわが子 応神天皇を皇位に就けた背乗り簒奪王朝です。この一党の直接の先祖(+迎合者・茶坊主)が「天つ神」の原型となり、先支配者である九州王朝の天皇や英雄は「国つ神」「物部」「熊襲」「出雲」と一等下に扱われてきました。神話の時代から差別・区別だらけ、これが日本の国体とやらの実態だったのです。
来た道を引き返して右手に折れ、歩きやすい道を林道と合流するところまで歩いていきます。さきほどの途中で消えたような道と大違いです。さすが登山道のひとつとして手入れされているだけのことはあります。
高良山林道を横切り、そのまま尾根道へと入っていきます。
途中から山道は尾根を逸れ、十数分ほど歩くと、高良大社の旧参道にたどり着きます。赤星神社(妙見宮)から、30分かかりません。もっと健脚なら、20分かからないでしょう。個人的には以前から、このコースが石段を回避できて最も楽に高良大社に向かうコースだと思っています。「御井町」バス停から登るより、「下谷」バス停から登れば元の標高も高いため、体力を使わずにすみます。
高良大社と境内の摂社を参拝し、高良会館の展望所でトイレを借りて休憩します。気温がほぼ1ケタの寒いなか、汗を拭きながらゼロコーラを飲む異様なおっさんの姿に、目があった人は驚いた顔をします。
今回も、高良山茶屋で肉うどんとお稲荷さんをいただきました。
朝、バスセンター構内のうどん屋で肉うどんとおにぎりだったはずなのに、また肉うどんを頼んでしまいました。まぁ、うどんは肉うどんじゃないとね。
あとから入ってきた家族連れは、ぜんざい、ソフトクリームと、甘いものを頼むひとがほとんどでした。
部活の高校生でしょうか。15人ほどが交互に下りは歩き、登りはダッシュをしています。それを脇目に見ながら、先日も通った北面コースの入り口に向かいます。
地図を見るかぎり、どれも同じところから分岐しているように見えるため、北面コースに向かったのですが、もしこの地図のとおりなら、過去に分岐した道を目撃しているはずです。どうもおかしい。
周囲を見回すと、どうも舗装路の先に他の道があるようです。近づいてみると、なにも標識はありませんが、どうやらこれが冒頭の地図でいう(B)の古宝殿コースのようです。歩いて確かめることにしました。
石や土嚢、丸太で土留めをして階段がつくられており、比較的歩きやすい道を下っていきます。床の抜け落ちた祠が2つ並んでおり、すでに誰も祀られてはいないとは思いつつ、念のため手をあわせます。
城跡らしい不動明王や石仏が並ぶ場所に出ました。ここが城跡のようです。案内板を読みながらふと気づきました。
「古宝殿」を「こほうでん」と読んでまったく疑いもしませんでしたが、ここが玉垂命の子息に与えられた出城なら、子宝殿(こだからどの)だった時代があったはずです。
(住み飽きる……そら山のてっぺんより、多少でも麓に近いほうがよかろう)と思いつつ、景色を眺めます。
本体の樹木は枯れてしまっているのに、ひこばえだけが生き残り紅葉している姿に妙に感じ入り、画像を撮影してみました。生命って偉大ですね……。
「四百階段」とあったので、登りではなく下りコースに含むよう経路を設定したのですが、正解でした。これを登っていたら……おそらく断念して帰ったかもしれません。
(3)へつづく。