美風庵だより

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筑紫野市山家 寝手神社


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福岡県神社誌に掲載がない神社です。

冷水峠を利用すると、大根地神社という社号票が目につきます。それは以前から気づいていたのですが、山のてっぺんであり歩かなければならないことと、大根地神社(大根地権現・大根地稲荷)とはなにかがよく理解できないため、あえて触れないようにしていました。

今回、麓にある分社のほうを初めての訪問です。

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http://www.city.chikushino.fukuoka.jp/furusato/sanpo92.htm

 福岡県筑紫野市山家に上西山、下西山という所があります。そこは大根地(おおねち)山の麓、冷水峠(ひやみずとうげ)を少し下ったところで、産神(うぶがみ)はいずれも大根地神社(1)から勧請(かんじょう)された「寝手神社」です。勧請の年は明らかではありませんが、上西山の寝手神社には万延(まんえん)元年(1860)建立の鳥居、元治(げんじ)元年(1864)銘の神額(しんがく)などがあり、下西山の寝手神社には、天保(てんぽう)3年(1832)建立の鳥居があります。この寝手神社には、次のような話が伝えられています。
◆あらすじ
 むかし、源頼朝(みなもとのよりとも)が富士の巻狩りを催したとき、白狐(しろぎつね)がはるばる九州まで逃げのびて来て、大根地権現(ごんげん)から「よくここまで逃げ延びてきたものだ。 ゆっくり寝てゆけ」とねぎらわれたといい、それから寝手神社といわれるようになりました(2)。

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内野村(現在の飯塚市内野)の村人は「大根地山」と呼びならわしているが、竈門山修験道の山伏は同じ山を「寝手山、寝手権現」と呼びならわしていたという話があります。これに従えば、言い伝えはあまり信用できる話ではないことがわかります。要するに、大根地とは、大根の地、つまり根拠地・本拠地のことだからです。

ではいったい、誰の根拠地なのでしょうか。

福岡県神社誌では大根地神社の御祭神を「国常立尊国狭槌尊豊斟渟尊、泥土煮尊、沙土煮尊、大戸道尊、大戸辺尊、面足尊、惶根尊、伊邪那美尊天照大神天忍穂耳尊瓊々杵尊、彦火々出見尊、鸕鷀草葺不合尊」としていますが、これはあくまでも神功皇后が羽白熊鷹征伐を祈願した神様の名前を列挙したもので、元は違うと考えます。

現時点での仮説は、月読命こと、大山祗が二田物部の地(現在の久留米市田主丸町石垣字二田)から進出した場所であり、彼が一時期拠点とした場所だったのではないか、というものです。

後年稲荷信仰と習合したのは、月読命(大山祗)の子が罔象女神(みずはのめ)であり、罔象女神スサノオのあいだの子が天細女(あめのうずめ)であることを考えれば、明瞭にみえてきます。天細女の別名は倉稲魂命であり、稲荷神の筆頭です。

この寝手神社とは、甘木朝倉から筑豊にかけて多数存在する大山祗神社と同系列の神社であると考えて間違いないでしょう。

大根地山に陣取った大山祗(月読命)と、英彦山に陣取った高木大神・天照大神卑弥呼)の勢力の境目が、馬見山でした。大山祗の子 木花開耶姫命(このはなさくやひめ)と、高木大神の子 ニニギを祀る馬見神社は、観念上の高天原として存在したのです。現実の生活がどこで営まれたのかは知る由もありませんが、互いの勢力の境界に記念建造物を建て、そこを聖地とすることは矛盾しません。

この寝手神社と、本社である山上の大根地神社は、御神狐に「ゆっくりと休め」と権現様が気を使われたなんてレベルの場所ではありません。

社号標は、これから紹介する甕冠神社、下西山寝手神社と共通の、芳翠流楷書をほうふつとさせる立派なものです。こんな立派な字が書けるようになりたくて手習いをはじめたはずなのですが……。神社よりも字にほれぼれしてしまいました。

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福岡県神社誌:記載なし(発見できず?)
[社名(御祭神)]?
[社格]?
[住所]?
[境内社(御祭神)]記載なし。
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(2020.06.13訪問)