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名古屋総鎮守とされる神社です。11月10日、はじめて訪問しました。
ちょうど氏子・崇敬者の方々が山車(福禄寿車)を手入れのためか引き出している最中でした。
同日に中部フィルの定期演奏会が行われた会場(しらかわホール)から徒歩数分のところにあり、下調べ等もせず、かるい気持ちで訪問したのですが、ある意味、熱田神宮・真清田神社・国府宮神社を超える重要な場所でした。
若宮八幡社の御祭神は、仁徳天皇・応神天皇・武内宿禰とされています。また、御神紋は橘紋です。
そして、社殿の正面右脇に「産宮住吉神社」があります。
産宮住吉神社の賽銭箱には、花菱紋があり、これが御神紋のようです。
高良玉垂宮神秘書では、住吉三神は、安曇磯良、崇神天皇、玉垂命(=筑紫君)のこととされています。
つまり、若宮八幡社の社殿にお祀りされている神様は、この3人のお子さんです、という意味になります。
しかもその産宮住吉神社の御神紋は、花菱紋です。
花菱紋が玉垂命の御神紋のひとつであることは、すでにこの日記にも何度も書きました。
これを考えあわせれば、産宮住吉神社とは、玉垂宮を隠すための偽装だとわかるのです。
若宮八幡宮の本殿に祀られている仁徳天皇とは親子ですから、若宮(子:仁徳天皇)=産宮(親:玉垂命(=武内宿禰・筑紫君))の関係がまず、成り立ちます。
ところが、問題はそれだけではありません。
住吉三神のひとり中筒男こと崇神天皇と、本殿に祀られている応神天皇にも親子の関係が成り立つからです。若宮(子:応神天皇)=産宮(親:崇神天皇)とも記すことが出来ます。
現王朝(崇神王朝)と前王朝(筑紫君が治めた九州王朝)の両方が、この名古屋の地で、同じ神社にお祀りされているのです。しかも、この仁徳=玉垂命、応神=崇神の両者は、ちょうど王朝交代期にあたる人物であり、この4柱をお祀りすることで、過去の日本を支配した王朝のすべてをお祀りしたことになります。
そして、若宮八幡社の御神紋は、橘紋です。京都の石清水八幡宮が大分の宇佐神宮を勧請したとしているのに、橘紋も御神紋としてあわせて使用しているのは、御承知のかたも多いと思います。これは、いわゆる先祖返りで、三つ巴紋の八幡宮となる前から、八幡さまだった人物を示しています。
この日記をお読みの方であれば気づくかもしれませんが、大幡主のことなのです。
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大若子命は、垂仁天皇の頃、朝廷より越の国(北陸)の賊徒・阿彦を討伐することを命ぜられ、 大いに旗(幡)を挙げて戦いに勝ったので、大幡主命の尊称を与えられた。
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ここまでくればこの日記の読者諸賢なら、まず初代八幡神としての大幡主の祭祀があり、さらに前王朝の最後の王を祀り、そして現王朝の創始者とその息子を祀るという3重の構造がみえるはずです。
ではこの3つのなかで、この神社を祀りはじめた一族が最も重視したのは誰でしょうか。それは武内宿禰に違いありません。武内宿禰は、記紀には大っぴらに書けない玉垂命の仮託先として、使われてきました。ふたりの天皇のあとに記されていますが、ほんとうは筑紫君であり、このふたりよりもはるかに大物なのです。
この若宮八幡社もまた、原初は玉垂命を祀る玉垂宮であり、大幡主の櫛田宮であったに違いありません。
真清田神社と国府宮神社について、おそらく最初の姿は、大己貴(大国主)を祀る神社だったのではないかと書きました。
かたや名古屋中心部には、玉垂命と大幡主の拠点が存在したということです。これはすごい……。
(2019.11.10訪問)