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10月11日、時間調整の空きを利用して黒崎の春日神社をはじめて訪問しました。どうやら赤貧が訪問したのは裏門からだったようで、画像はありませんが立派な参道がべつに存在します。
現在の社殿には、向かって正面左側から「出雲大社」「二四騎霊神」「国祖黒田大明神」「鳥野春日大明神」「地主 大比叡神社」「須賀神社」と6つも扁額がかかっています。成立経緯が相当複雑なのが、これだけでもうかがえます。
福岡県神社誌にかなり長い由緒書きがあり、辛抱して読むと、
・まず、鳥野の地に天児屋根命と比売神を祀る鳥野神社として創建。
・つづいて貞観15年(873年)、春日神(武甕槌命、経津主命)を合祀。鳥野春日神社と改称。
・慶長5年(1600年)に黒田公の命により、現在地に移転。現在地にはもともと大比叡神社があった。その際、若宮神社と祇園社を祀る。
・寛永年間(1624年~1645年)に黒田長政公を黒田神社として併せ祀る。
・寛延年間(1748年~1751年)に黒田孝高公を併せ祀る。
という流れが見えてきます。
まったく記載がないのは「出雲大社」で、この点については後日、福岡県神社誌以外の資料をあたってみる必要がありそうです。
まず、この地にもともとあったのが大比叡神社だったという点が重要です。御祭神は大山咋とあります。そして、鳥野神社に祀られていた天児屋根命とは天之忍穂耳の別名のひとつであり、比売神とは姫神、つまり妃のことですので、市杵嶋姫と考えてよいと思います。天之忍穂耳には複数の妃がいますが(ほんと乱婚ですね……)、天之忍穂耳と市杵嶋姫のあいだの子が大山咋であることを考えれば、ここは市杵嶋姫だと考えるほかありません。
つまり、息子を祀っていた神社と、その両親を祀る神社を整理統合したというわけです。江戸時代の初めごろには、記紀の虚偽に惑わされず、正しい血縁関係を知っている者がちゃんと存在していたということでしょう。そしてそこには若宮神社もあります。大山咋の子(若宮)は、のちの崇神天皇です。
武甕槌命も、天之忍穂耳の別名のひとつです。また、天之忍穂耳は海幸彦とも呼ばれます。経津主命は、別名猿田彦であり、山幸彦のことです。海幸山幸(とその妃)が、春日神の基本的な配神です。
ここまでなぞ解きを終えたうえで、並び立つ扁額をじっくりとご覧ください。
現皇室の起源となるメンバーと、「国祖 黒田大明神」が並んでいます。
黒田公には、どうも天下取りの野望があったのではないでしょうか。いろんな神社を合祀して黒田大明神に仕立てたのも、野望を表向き隠す意図があったのではないでしょうか。
ちなみに御神紋は、鶴紋のようです。賽銭箱に鶴の紋様がありました。黒田家は藤巴紋か餅紋ですから、この鶴紋がどこから来たのかも、調べてみると、新たな発見があるかもしれません。
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[福岡県神社誌(抄)] 上巻188頁
[社名(御祭神)]春日神社(武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神、黒田孝高霊神、黒田長政霊神、天忍雲根神、二十四臣神)
[社格]県社
[住所]八幡市大字藤田字鳥野
[境内社(御祭神)]大比叡神社(大山咋命外六命)、菅原神社(菅原道真)、天照皇大神社(天照大神、市杵嶋姫命)
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(2019.10.11訪問)