goo.glさいきん、古代史マニア化してきて、神社に行くと御神紋を探して屋根ばかり眺めている赤貧です。
2日、コンサートの前に、豊功(とよこと)神社にお参りしました。赤貧がときどきお参りしている忌宮神社の飛び地で、満珠島・干珠島が見える場所にあります。
1917年に、長府藩の歴代藩主を祀った豊功社を忌宮神社から移転し、移転先にあった八幡宮を合祀して社号をあらためたものです。
広々とした境内にRC造の拝殿と神明造様式の本殿があります。境内には、秋葉神社や龍神社があって、龍神社のとなりには船のスクリューがどん、と鎮座しています。
手前の小さい島が「干珠島」、奥の大きい島が「満珠島」です。
神功皇后が住吉大神の化身である龍神から授けられた二つの玉、潮干珠(しおひるたま)・潮満珠(しおみつるたま)から生まれた島という伝説があります。もし赤貧がSF作家なら「神代に津波を起こす超兵器が存在した!」などと書くかもしれませんが、それはさすがに……。
神器を龍神に返すと島になったという伝承は、偉大な存在であることをPRするために権力者側がつくったウソなのか、それに近いなにか事件があったのかはさだかではありません。
豊浦高校の横をとおり10分ほど歩くと、忌宮神社と荒熊稲荷神社に着きます。
今日は珍しく御神鶏がおとなしく写ってくれました。あらたな仲間が加わったのか、ひな鳥の姿もあります。荒熊稲荷で、商買繁昌を祈願します。
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仲哀天皇元年(192年)に熊襲の征討に訪れ、仲哀天皇2年(193年)に行宮豊浦宮を建てられた。三代実録によれば、仲哀天皇4年(195年)に秦の始皇11代の孫功満王(こまおう)が渡来して日本に住みつき、珍しい宝物である蚕(かいこ)の卵を奉献したとされ、豊浦宮(現在の忌宮神社)が蚕種渡来の地とされる。
仲哀天皇8年(199年)に天照大神と住吉三神による託宣を疑ったため筑紫の香椎で亡くなった仲哀天皇を、神功皇后が三韓征伐からの帰途、豊浦宮の跡に祀ったのに始まると伝える。
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遊んでいるお子さんが写りそうだったので画像はありませんが、忌宮神社には大きな銀杏の樹があります。
宗像市鐘崎の織幡宮には忌宮神社からの株分けと伝わる銀杏の樹があり、下関から鐘崎、そして香椎へと海沿いで軍勢を進めていったのがわかります。
仲哀天皇の死後、玉垂命と住吉大神と神功皇后で3種の神器を預かったという神秘書の記述。熊襲の一族である阿蘇津彦が三韓征伐で活躍しているのに、もともとは熊襲征伐で九州に下向してきたとする記紀の記述。
熊襲という勢力も居たのでしょうが、どうも各地の言い伝えや神社の由来書きを読んでいると、反抗勢力を「熊襲」とひとくくりにしていた気配もあります。
このあたりの整合性をどう考えるか、さらに検討してみなければなりません。