松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

飯塚市桑曲 大山祇神社

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福岡県神社誌に記載はあるものの、googleマップに掲載されていませんでした。この日記を書くにあたり、googleマップから申請を行ったところ、数日後には反映されていました。さすがgoogleマップは対応が早い。

神社誌では、御祭神は大山祇命オオヤマツミ)と竈門神(宝満宮)とされています。

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大山祗(オオヤマツミ)の娘にコノハナサクヤヒメが居ます。
神武天皇のじいさんニニギの嫁さんです。
ニニギは、アメノオシホミミ英彦山)がタカミムスビ(高木神)の娘をめとってできた子とされます。英彦山社領各地に、高木神社(大行事社)があったのは御承知のとおりで大山祗の治めたエリアと英彦山領のちょうど境界線あたりが、馬見神社のあたりです。
いずれあそこにも久しぶりに顔を出さないといけないのですが、まずは、米山峠から冷水峠あたりに多い、大山祗の拠点を見ていこうと思います。
ちなみに、桑曲地区は1947年に朝倉郡夜須村から嘉穂郡内野村に編入された地域で、戦前の信仰圏は一体だったと考えられます。
コノハナサクヤヒメが産んだ子が海幸彦、山幸彦です。
山幸彦は、塩土老翁(大幡主)の手を借りて海幸彦を下します。
大幡主は博多の櫛田神社です。そこに大山祗の子 大己貴が入り婿をしてのちの大国主となります(入り婿が後継者となり「主」を襲名したわけです)。こう考えると、大山祗の拠点をはさんで遠賀川筑前町方面に大己貴の拠点があり、臣下として(春日出身の)事代主が支える構図が見えてきます。
大山祗は、天つ神と大己貴を結ぶ重要な線です。のちになんらかの理由で、愛媛の今治に更迭されてしまいます。息子の大国主が、出雲に飛ばされたように。
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旧唐書 - Wikipedia

(略)

旧唐書東夷伝の中には、日本列島について「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立しており、「巻199上 列傳第149上 東夷」には「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地」とあり、倭国が国号を日本に改めたか、もともと小国であった日本が倭国の地を併合したと記述されている。

(略)
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むかしこの部分を読んで衝撃をうけ、それからなにげに気に留めながらやってきました。さいきん、玉垂宮神秘書の本物を入手し、だいぶ霧が晴れてきましたが、神秘書をどこまで真に受けてよいものかもわからない状況です。いろいろと眺めていくうちに、わかって来るのでしょうが。

(2019.06.08訪問)

 

 

 

 

名古屋市熱田区 高座結御子神社

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この神社も再訪です。
最初は、太閤秀吉の母親が息子の出世を祈願したお稲荷さん(太閤出世稲荷)があるというので、そちらが目当てでお参りさせていただきました。
名城線西高蔵駅から歩いて5分もかかりません。

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社紋は五七桐笹で、真清田神社や国府宮神社との関連性がうかがえます。
この神社の御祭神は高倉下命とされています。尾張氏の祖先とされていますが、googleで検索しても、なかなか情報がでてきません。

先行研究として、以前から気になっている場所があります。

剣根の日本古代史 第六十四話 仲哀天皇の船を止めた神

高倉神社(1)日本書紀そのままの古社・神功皇后の船を止める男女の二神 : ひもろぎ逍遥

高倉神社(2)弥生の風景そのままに・伊賀彦は水銀産出の国から来て、ここに留まった : ひもろぎ逍遥

高倉神社(3)草薙の剣を取り戻して造られた7振りの剣を合せて八剣神社とも呼ばれていた : ひもろぎ逍遥

福岡県遠賀郡岡垣町の高倉神社についての記事です。日本武尊にかんする伝承地であり、大倉主・伊賀彦と、この高座結御子神社の御祭神である高倉下命が同一(もしくは同族)である可能性は、赤貧も高いとみています。

ただ、赤貧は岡垣町の高倉神社より、この熱田のほうが後にできたのではないか、という印象をどうしてもうけるのです。

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社殿脇にある新宮社と鉾取社の祠の配置は、大善寺玉垂宮で坂本社が両脇に控えている姿に似ています。じつはこの配置は、熱田神宮社殿と西八百万社・東八百万社の配置とも似ているのです。

すると向かって左は御祭神の若君であり、右は侍臣ということでしょうか。

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このヒントは、社務所の横にある御井神にあるとみます。

味水御井神社

御井といえば、味水御井神社に気づくかたも多いでしょう。

じつは、高倉下命を祀る神社という体裁をとっているけれども、実際には神功皇后や玉垂命を信奉する部族が、原型をつくったのではないでしょうか。

何故そう感じるかというと、公式では新宮社の御祭神はスサノオということになっています。本殿が日本武尊とその子孫である高倉下命や尾張氏であるなら、「新」宮では年齢が逆転してしまいます。自分の親よりずっと上の世代に「新宮」とは言わないでしょう。

鉾取が誰かは気になるところですが、高倉下命をつうじて神武天皇に剣を授けたタケミカヅチになぞらえているとすれば、おそらくは武器が御神体のはずです。

つまり、武器をとって戦い、勝利することが一族の維持繁栄と直結していた時代には、武器は恵みをもたらしてくれる神様そのものだったわけです。

これは、現代でもかわりません。より強い兵器を有することが、他国から身を守ることになり、結果として互いが攻め込まず平和をもたらすという信仰です。日本人の見てくれは進化していても、実際の中身はあまり変化していないのかもしれません。

(2019.06.15訪問)