松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

稲沢市国府宮 国府宮神社

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名鉄電車の急行で一宮駅の次の駅は、国府宮です。名鉄には国府宮(こうのみや)とは別に国府(こう)駅もあります。国府宮駅は、尾張国国府があったところで、国府駅は、三河国国府があったところです。

国府宮神社はすでに一度訪れており、なんとも言えない既視感に親しみを覚えた場所です。

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稲沢市のある辺りに海はありませんが、宮島鳥居が建っています。両部鳥居とも呼ばれる、支柱のある鳥居です。一般的には仏教の影響でつくられたものとされていますが、赤貧があちこち眺めていて感じるのは、もともと地盤の軟弱なところに鳥居を建てるための技術だったのではないかということです。海や、干拓地が発祥で、そこから展開してきた様式に思えます。

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御神紋は、五七桐を竹で丸く囲んだもので、真清田神社で見た九枚笹との関連が伺えます。つまり、この神社をほんらい奉斎していた住民には、大己貴を祀っていた一族も混じっているということです。そして桐紋、とくに五七桐は武内宿禰(玉垂命)の御神紋であり、筑紫君の勢力下でもあったことになります。

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御神紋と鳥居だけでなにが判ると思われるむきには、この神社の別宮のひとつが、宗形神社であるということが、重要な傍証になるでしょう。

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また、もうひとつの別宮である大御霊神社も、大年神を祀るとされています。大年神は、大国主の配下で開拓にたずさわったという話もあれば、海幸彦の子という説もあってしょうじきわからない存在なのですが、少なくとも、親世代はどちらにしても九州発祥です。

広い参道を眺めていると、どこか筥崎宮を思い出します。建物があるからわかるわけで、このまま海に向かって伸びていると言われても、むかしのように田んぼばかりだったら、気づかないでしょう。

果たして、自分たちの先祖がわたってきた海を追慕して建てたのか、さらなる開拓精神で海をみつめていたのかは、知る由もありませんが、陸路より海路をとる民族が、この神社を祀っていたことは、間違いなさそうです。

(2019.06.13訪問)

交通費大盤振る舞い

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先日、知人と入ったファミレスのバイト募集広告です。
目を疑って写真を撮り、知り合いの子供さんに「交通費25,000円まで支給とか??」と意見を訊きました。
西鉄バスで月額25,000円と言えば、天神から香椎はゆうに定期券が買えます。片道30分かけてバスで来ることが可能ということです。人手不足なのか、儲かっているのか……。
「田舎じゃ信じられない。さすが都会」と二人で話したのでした。

一宮市真清田 真清田神社

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以前から行ってみたいとは思っていました。
むかし、いちど行くところで段取りをしていたのですが、そのときは列車事故による遅延と赤貧の時間勘違いがかさなり、行くことができませんでした。

……と、普通であれば、こういう書き方でさらりと書き出してひととおり神社について案内すれば終わるのですが。今回は、一筋縄ではいかない相手でした。

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6月13日にまず顔を出したのですが、想像していた世界とはだいぶ違います。立派な神社なのだけれど、御祭神がアメノホアカリというわりに、うける印象が随分と異なるのです。ひとことで言えば、祭神が違うのではないか、と感じます。

摂社末社を眺めると、厳島社、須佐男社、秋葉社愛宕社、稲荷社と、九州王朝説ならおなじみの神様が勢ぞろいしています。ただ、このメンバーだったら大己貴ではないか、と思えてしまうのです。

むろん、アメノホアカリでも成り立ちます。アメノホアカリは、神武の祖父、ニニギの兄です。アメノオシホミミ英彦山)が、タカミムスビ(高木神)の娘に産ませた子供です。九州との縁がないわけではありませんが、それで市杵嶋姫、金山彦、スサノオというのは、いろいろ神社を眺めていて、なにかしっくりこないのです。

どうしたものか考えてみましたが、その場ではよい考えがひらめかず、後日また再訪することにしました。

6月14日、早めに起床して、真清田神社を再訪しました。
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これから話す内容がわかりやすいよう、googleマップを加工して航空写真を載せておきます。

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まず、本殿の北東と南西に、神明社が建っています。いわゆる鬼門封じですが、ただの鬼門封じではなく、まるで監視するかのような配置です。見張り番をたてているといったほうが、雰囲気はよくわかっていただけるのではないでしょうか。
さらに、社殿の後ろは公園(大宮公園)になっています。ふつうであれば、おそらくここが古代の祭祀場だとか、そういう解釈をするべきなのでしょうが、かりに聖地であれば扱いがぞんざい過ぎますし、どちらかといえば、外界と接触させないための緩衝地帯に近い存在に思えます。

つまり、この神社の御祭神は、四方八方から抑え込まれているのです。

正面にまわって、社殿をじっくりと眺めてみます。

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九枚笹紋は、大己貴とその配下である事代主や建御名方を祀る神社に多い御神紋なので、おそらくはその延長で考えてよいものと、ぼんやり考えていたら……。
尾張造の社殿の脇殿(正確には違うかもしれません)は、三枚笹紋がついています。最初見過ごしていたのですが、数秒ほどして、ゾッとしました。

つまり、ここの御祭神は3人居て、全体で九枚笹紋を使う神さまなのです。

大己貴と事代主と建御名方しかありません。

ところがそうなってくると、由緒書きと一致しなくなります。江戸時代まではクニトコタチノカミを祀る神社とされ、いまの公式見解は、アメノホアカリを祀る神社ということになっていますが、大己貴なら、どちらでもなくなってしまいます。
しかし、ほんとうはここに居るのが大己貴と考えれば、前後を神明社が監視役につき、社殿の裏に住民が寄り付かないよう、緩衝地帯がある理由も納得がいきます。

この真清田神社は、尾張一宮とされています。ずっと社格が上の熱田神宮がなぜ三宮なのか(二宮は大縣神社)という議論は、赤貧も以前ネットで見かけたことがあります。
祭神が大己貴という前提で書くと、けっしてへんな話ではありません。
皇室からみれば、熱田神宮のほうがはるかに重要です。ただし、ジモティからみれば、熱田は新しくやってきた侵略者が奉斎する神であり、そこまで有り難がる相手ではありません。皇室もジモティに配慮して、一宮の称号を譲り、その代わり社格は熱田神をずっと上に位置づけて、自分たちのほうが上だとアピールしたのではないでしょうか。

通説では、国府との距離感で決まったという話もあるようですが、配慮が必要なくらい、当時はジモティが強い土地柄だったと考えるほうが、わかりやすいでしょう。

真清田神社が建っている土地は、尾張国です。倭国にとって「終わり」だったから尾張であって、東端の、新しく支配下に組み込まれた土地でした。日本武尊の言い伝えは、そのことを示しています。だからこそ、懐柔策が必要だったのです。

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真清田神社の本殿裏には、荒魂を祀る三明神社があります。近づくことができず、公園側から撮影するよりほかないのですが、まるでSPに囲まれたVIPといった感じです。

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境内にさざれ石で出来た磐座がありました。普通ならしめ縄のひとつでもされていて良さそうなものですが……。隣にあるのが末社で、愛鷹(あしたか)社、天神社、犬飼社とありました。天神社には、スサノオ住吉三神が合祀されており、犬飼社とは、海幸彦であり、彦星であり、アメノオシホミミのこと。愛鷹明神は、山幸彦のこと。海幸山幸のまんなかにほかの神様を並べて、狭いなかでもケンカしないように工夫されています。九州から移住してきたひとびとの拠点としか思えない……。

(2019.06.13-14に訪問)

白楽天

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6月22日、午前中に日田での用事を終えて、杷木発着所近くの白楽天でお昼ご飯をいただきました。帰りに白楽天に立ち寄ることを考えて、最初からバスで移動していたため、唐揚げとチャーハンと瓶ビール2本いただいて、新聞を読みながらのんびりと時間を過ごしました。ほんとうの看板メニューは、「どろちゃんぽん」と称するあんかけちゃんぽんなのですが、とてもこの時期に食べて帰る勇気はなく、唐揚げとチャーハンでおなかいっぱいになりました。

杷木発着所は、2016年に日田バス杷木営業区に衣替えしました。トイレも発着所も建て替わってあたらしくなりましたが、さすがに以前のように売店と定期券売り場はなくなりました。近くのお店に、nimocaの販売を委託しているようで、その旨の案内がありました。

さすがにこの日は晩御飯は無理でした。

帰宅して町内会の打ち合わせに出て、18時ごろに風呂に入りました。
(2019.06.22訪問)