松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

2024年9月26日(木)の日録。

なんとなく雑談のメモ(3)

きちんと筋道たててまとめる気力がないため、9月15日と16日に知人と行った雑談の記憶にある範囲を記します。裏をとる作業を省いているため内容は保証しません。

饅頭のはなしのつづき

「以前、仏教というのは宗教ではなく哲学だという話をしたわけです。饅頭饅頭ってわからん話を書きやがって、というLINEが来ました。あのときアクセス数は増えたんですね。でも「いいね」もブックマークもつかなくて、読んで当惑してるんだろうなというのは、さすがに感じました。
そこで、べつの素材でこの話を再整理してみることにします」

「あれ、説明が圧倒的に足りない」

「まず、この日記では一神教の話をすることが多いわけです。ユダヤ、イスラム、キリスト教、どれもなにをもって「悪」とするか、判りやすいのですね。神が「これはダメ」と示したから悪なんです。モーセの十戒とか、まさにそれです。
仏教はなにをもって悪とするか、そういう決め方をしません。
まず、輪廻転生があります。過去の罪をつぐなうために、私たちはこの世に生まれてきた。だからこの世は苦しい。この苦しみから逃れたければ、悟りをひらき罪をつぐなって、涅槃に行くしかない。涅槃に行けばもうこれ以上生まれ変わることがない、永遠の死。それが最高の理想です。
仏も人間も、それ以外の生物もみな、この世に存在する以上、ともに苦しむ者なんですね。ただ、仏はより多くを悟り、一般の者より先行しています。
修行をして悟りをひらくというのもあるだろうし、日常の生活のなかで良いと思ったことを実行する。それもまた善を積むことになる。逆に、他人が善を積むことの妨げをしてはならない。それが悪です。虫を殺してしまえば虫はもうこの世で善を積むことはできない。泥棒して他人のカネと食い物を奪えば、そのひとは死んでしまうかもしれない。だから悪い。生きるのが苦しいからと勝手にあきらめて海にダイブして自ら人生を投了する。これも悪い。
悪とはなにかという概念が一神教とまるっきり違うんです。
逆から言えば、少しでも多くの生命にこの世で生き永らえ善を積むチャンスを与えることは、それ自体が善行になる。
仏さんにおすがりして救ってもらおうと教える宗派がありますね。「なん◎ょー」とか「なん◎んだぶ」とか。仏さんはべつにボランティアをやってくれているわけではありません。下々を救うことが彼にとっての善だからやっているわけです。そうやって善を積み罪を帳消しにしてもらい、最後は涅槃に行きつくのを目指す。
この関係に上下はないんです。先行しているかどん尻に居るかの違いはあっても、誰かが誰かを指図したり、所有するという関係ではありません。
一神教の場合、人間は神の創造物のひとつです。最初から上下関係ははっきりしています。仏教の場合はそうではない。するとここで「私」とはなにかという問題がでてきます」

「神が私の存在を保証してくれるわけではない。でも現にここに私は在る。この私はなんなのか。哲学でいう存在論とか「自他関係」の話になっていく。ざっくり言えば実存主義でいう現存在にも似てくる」

「今回は目の前のいも天で話をすすめます。
 私たちはこれを「いも天」と呼びます。おそらく日本でいちばん標準にちかい呼びかたをするなら「さつまいもの天ぷら」でしょう。でも私たちは通常さつまいもとも呼びません」

「といも(唐芋)」

「そう。といもですね。もし韓国人なら「こうぐま」とか「こぐま」と呼ぶでしょう。方言とか言語とか言っているけれど、要は文化の違いで名前は違う。でも、どう呼ばれてもこれが標準でいう「さつまいも」という認識はあるわけです。そしてそれを切って衣をつけて揚げたら甘い美味しい「いも天」になる、という認識もある。なぜか。知識を共有できているからです」

「もし天ぷらという技法を知らない民族なら、通じない」

「そのとおり。逆にその民族がまったく違う料理のしかたでさつまいもを食っていたら、私たちはその味すら想像できません。
ここで重要なのは、サイズはバラバラ、厚みもバラバラ、衣の付き具合もバラバラのこのいも天を、なぜ私たちはいも天と認識しているのかです」

「あんたがこの前言おうとしていた「八識」と「因果」で認識する」

「そうです。人間に備わった舌、目、耳、直感、いろんなセンサーと、過去の経験から、形や厚みが不揃いでも、これは「いも天」だと認識できるんです。そして重要なのは「いも天」に基準とか標準形はありません。メートル原器みたいな「絶対真正オリジナルいも天」なんてもんはない。これが「空」です。センサーの認知した結果と、過去の経験で判断しているだけで、実態はあるかどうかわからない。これを日記に書くとき「いも天」の画像を掲載するつもりですが、わかるひとは画像だけでもよだれが出ます。その人にとっては画像の「いも天」もまた真実なんです。
これ、まるっきり認識論です。それもフッサールとかああいう現象学の世界。宗教といいながら、根底は哲学なんです」

「なぜここまでやる必要があったんだろう」

「一神教は神が決めたという殺し文句があります。仏教はこの世でどうしたいかは一人一人に任せられている。極悪非道のかぎりを尽くして地獄に行ってもいい。善をつんで苦しみから逃れるのもあなた次第。すると、行動の主体となる「私」って誰?という話にたどり着くんです。自然と。
そして重要なのは、寿命があるという点。生まれたばかりの赤ちゃんから、よぼよぼになって死ぬまで、私は私。ではなぜ私であり続けるのか。
小学生とよぼよぼの老人を並べて「同じ人間です。かたほうはタイムマシンで連れてきました」と言われても、通常なら信じない。でももしこの二人にしかわからない共通の記憶があったりすれば、一気に真実味を帯びます。この二人は結び付くことができる。
どんなひとも確実に老いる。でも同じ名前で呼ばれつづける。日々、ニュースに触れたり、他人と接したりしていろいろ経験を積む。パッと見てすぐには違いはわからないけれど、昨日の私と今日の私は違います。今日の私は昨日のことを知っている。でも、昨日の私は今日なにがおきるか知りません。私たちはどこかにとどまってはいないんです」

「リストのいう「人生は死への前奏曲」ってやつ」

「諸行無常とも言えます。これが「空」なんです。同じ名前で呼ばれていても実体はない。日々どころか秒以下の単位で変わり続けている」

「こういう部分がクローズアップされるということじたい、一神教とまったく建付けが違う」

「仏教はまず個人からスタートします。民族とかそういう枠から入らない。まったく別物なんです」

 

26日の記録。

こうも暑いとお榊もすぐ痛みます。毎回従兄宅の山に採りに行くのも、お店で買うのも懐にひびくので、ベランダの鉢植えやマンションの花壇に植えたお榊から先端を拝借して、とりあえずしのいでいました。どうやら寿命がきたようで、枝が真っ黒です。

ベランダの鉢植えから先端だけ切り取らせてもらい、ロックウールに挿して固定します。水をうける皿は、以前なにかのおりに買ったお菓子を焼くときの皿をつかいます。

もうしばらくはこれで辛抱してもらいましょう……。

「もち米をつかっていないのだから赤飯ではないだろ?それにそもそも蒸してないよね?」とLINEをもらいました。はい。そのとおりです。

というわけで赤飯あらため「小豆ごはん」に塩昆布とお茶漬けの素をのせて、今日も昼弁当です。

味噌ラーメン<5食パック> -イオンのプライベートブランド TOPVALU(トップバリュ)

朝飯に賞味期限ぎりぎりで半額投げ売りだった味噌ラーメンを開封します。すでにその賞味期限からも2週間すぎていますが、大丈夫でしょう。

いつもの5食入り208円のものと違って定価は298円。1.5倍です。

値引き投げ売りだったとはいえ、定価で比較すれば常食しているものの1.5倍するだけのことはあって、味噌としょうがの香りがします。真っ当に食える味がします。

100円(一食あたり20円)の差がこれほどとは……。

ただ、半額投げ売りじゃないとこれは買えません。あと100円出せばひごろから贅沢ができると思うと、口がおごってしまいます。げんに慎まねばなりません。

贅沢は敵今日も決戦明日も決戦。貧乏人には贅沢はゆるされないのです。いつか食べたいときに牛タン定食が食える。うなぎのせいろ蒸しが食える。そんな夢のような生活を……ないな(泣)

秋晴れっぽいとも言えるし、まだまだ夏を引きずっている感じもするし、不思議な空がひろがります。今日も昼間は33度越えでした。

 

人間やめますか。NHKやめますか。まだこれでも受信料を納めますか?

youtu.be

NHK 尖閣ラジオ問題で辞任したはずの理事が1週間で再雇用されてた件を解説 - YouTube

昨日投稿した対談シリーズを編集した時点(約1週間前)では、この話、当然ながら知りませんでした

過去の行状からみれば誰でも予想できたことですが、責任取らせたふりをしてなんと1週間で再雇用、しかも子会社とか関連会社とかいっけん関係ないところに隠しもせず実態は「降格」という、笑いすぎて腹がよじれる事態です。

世間はいくらでもごまかせるとなめくさり、受信料を黙って納める善男善女の存在にあぐらをかいた所業というか……。

逆に言えば1週間でマスゴミが暴露するところをみると、まだまだ社内にもまともな人間が残っているということなのかもしれませんが……。

人間やめますか。NHKやめますか。この組織の倫理観は崩壊してます。