松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

北九州市小倉南区志井 多賀神社


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訪問当日、あわててリストを作成してしまったため、下準備ができていませんでした。

福岡県神社誌の多賀神社にかんする部分を抜粋してみました。

以下、「由緒」を整理してみます。

  1. 882年(元慶6年)の創建とあり、由緒にはありませんが近江の多賀大社を勧請したものだとおもわれます。
  2. その後、長野豊前守種盛が統治した時代に椎山の頂上にあらためて盛大に祀りなおした(宮柱太く敷きたてて鎮座)。
  3. それは「永享の乱(1438年)」「嘉吉の乱(1441年)」以前である。ということは、長野種盛が盛大に再建したのは、1430年代よりも前になる。
  4. 応永年間(1394年~1428年)に、椎山から麓の現在地に移転してきた。
  5. 椎山の頂上にあったころ、妙見社を併せ祀るようになっていたため、社号も「妙見社」と呼ばれるようになっていた(現在は元に戻した)。現在、妙見社は末社として存在。
  6. この地を「志井(四井)」というのは、地域内にあった四つの井戸の水をもちいて神饌をこしらえていたことによるもの。

さきにこれを読んでおけば現地めぐりでみる視点も深まったのでしょうが、かなり謎だらけです。

  • 多賀大社 - Wikipedia

    藤原忠平らによって延長5年(927年)に編まれた『延喜式神名帳』では、当社は「近江国犬上郡 多何神社二座」と記載され、小社に列した。「二座」とあるが、伊邪那岐命・伊邪那美命とされていたわけではない。

    多賀大社の祭神は南北朝時代の頃までは伊弉諾尊ではなかったことが判明しており『古事記』の記述と多賀大社を結びつけることはできない。

    そもそも多賀大社の史料登場は延喜式神名帳まで待つこととなり、882年の創建当初から多賀社であったかは不明。

  • 武家家伝_豊前長野氏

    長野氏は平安末期から戦国期の天正年間まで、豊前国規矩郡長野地方を中心に国人領主として勢力を有した。『長野系図』によれば、平清盛の従兄弟康盛が保元二年(1157)豊前国司として下向し、長野城を築いて居城として以来、地名をとって長野氏を称するようになったという。

     すでに先行研究にて長野種盛の3代後になる長野義広が多々良浜合戦で討死したことがわかっていますから、1336年よりもまえに椎山の頂上に祀られています。
  • 椎山(志井山・古川山)の山頂には三等三角点「陣川」があります。

    豊前 椎山城-城郭放浪記

    築城年代は定かではないが弘安年間(1278年~1288年)に長野種盛によって築かれたと云われる。大永6年(1339年)大内盛見に攻められ落城したという。

椎山にあった城について検索すると、どうやら答えがみえてきました。

おそらく、

  1. 平家一門である平康盛(長野康盛)が豊前国に下向し築城したさい、自らの信仰をたずさえてきた。
  2. 4代あとの長野種盛の時代に、椎山に築城(弘安年間(1278年~1288年))。
  3. 落城で拠点をうしない、神社が長野氏がまだ支配していた麓におりてきた。
  4. 神様にお供えするための4つの井戸があったから「四井」ではなく、元から4つの井戸があって「四井」で、そこに神社が移転してきて、神饌をととのえるために使うようになった。
  5. つまり戦国時代の領地分捕りあい合戦が、有名な合戦の名前と混濁して、伝承となったもの。

ということでしょう。元慶年間の創始というのは、もしかすると多賀大社本体の話と混濁している可能性もあります。

それにしても「四つの井戸」うっかりしてました。訪問しそびれました。

私自身もいずれ再訪して探す予定ですが、すでに訪問記録がありますので以下を参考にされてください。

「清水池」の井戸ちかくの興玉神 北九州市 志井 - 日々の”楽しい”をみつけるブログ

志井(しい)という名の由来 四つの井戸を探す 福岡県北九州市小倉南区志井 - 日々の”楽しい”をみつけるブログ

志井(しい)という名の由来 四つの井戸を探す-その②- 福岡県北九州市小倉南区志井 - 日々の”楽しい”をみつけるブログ

 

参道入口です。中志井公民館と志位小学校のあいだにあり、多賀大神の御神札があるので、すぐわかります。

車1台分くらいの幅で、集落のなかの里道も兼ねています。

鳥居の扁額は「多賀社」です。

 

二の鳥居があり、そのさきに、掃き出しのアルミサッシでリフォームされた拝殿がみえます。

赤瓦といい壁の色合いといい、改修されてまだ間もないようです。

板張りも立派に張り替えられています。

本殿屋根も瓦と同じ色で統一されています。

倉庫?(神輿庫?)や社務所の屋根も赤で統一されているのですが、渡り(幣殿)に直接、一本道が伸びています。ただの社務所ではなく神饌の調製場(神さまのごはんをつくる場所)としての機能を重視しているようです。

お宮の規模にもよっては、神職をここから直接、渡り(幣殿)に行かせることもありますが、そういう用途でつかうには玉串奉奠も難しいような?

境内を2,3周しましたが、御租神社(妙見社)らしきものがわかりませんでした。もしかすると合祀されているのかもしれません。

福岡県神社誌:下巻136頁
[社名(御祭神)]多賀神社(伊邪那岐命)
[社格]村社
[住所]小倉市大字志井字宮山
[由緒]※本文中に引用
[境内社(御祭神)]御租神社(天之御中主)
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2022.09.22訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

9月22日の日録 - 美風庵だより