松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

福岡市博多区諸岡6丁目 八幡神社(笹原八幡神社)


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ここは八幡宮ですが、地禄神社も併合しているようです。

立派なご神木が目をひきます。

此の地は黒田五十二万石家老立花氏へ下渡しの地で、那珂郡諸岡村の大坪・東の前・原口・原中・池の上・下の山一帯の集落を集め笹原と称す 家臣立花氏は藩命を受け此の地に住し武道練磨の側ら農田の改良と併せ畑地の開墾に盡瘁し似って田十七町余歩 畑一町余歩の良耕地を造成するにいたる
偶々武運長久五穀豊穣を祈願し此の地に八幡大神・地禄大神の二社殿を建立す その後立花家の嫡流吉右衛門増徳公は嘉永六年建材を天拝山麓に求め拝殿の再建をはかる 此の頃立花家の仁徳を慕った与右衛門の先代は笹原の一隅に移り住み営農を乞い耕作に励む 後立花家の命により藩主狩り遊休息所跡下の山に転し冨永姓を頂く 立花家は初代吉右衛門没後同名を襲名して明治十年にいたるや冨永家代主興作に享保六年御公儀納那珂郡一園六十三ヶ村上納田畑二千三百八十七町五反一畝四歩 住人数三万八千七十七人 内男二万千七百二十九人 女一万六千三百四十八人等々記録した御帳之控一冊を託し西南役従軍のため此の地を去る 冨永家は(?)農の先駆として繁栄し就内初代興荘は大正元年福岡歩兵第二十四聯隊入隊 同三年除隊 超えて七年シベリアに出兵動員下令早暁出発同八年凱旋する等あって聖代昭和を迎え二十二年遂に当時下の山町世帯数三十七をもって笹原町より分離す後星霜幾春秋現日当町の世帯数三百四十を算するに至る (?)冨永家の直系に立ち愚閏と共にその天壽をよろこびもって此の地の隆昌を祈願し茲に碑を建て永くその歴緯を記しおくもの也
昭和四十四年十月吉日
初代 冨永興荘

「開祖笹原 立花家之碑」と、その脇に毘沙門天像がありました。

背面の碑文を起こしてみました。江戸時代に黒田藩の家老がこの土地を開拓し、土着した子孫が冨永姓を賜って現在に至るまでが記されていました。この碑文からいけば、もとは八幡神・地禄神が別々に祭祀されていたものを、江戸時代後期(嘉永年間)の改築にあたって、現在のかたちにまとめたもののようです。

境内には、お稲荷さんもありました。

福岡県神社誌:下巻413頁
[社名(御祭神)]地禄神社(応神天皇、埴安神)
[社格]無格社
[住所]筑紫郡那珂町大字諸岡字東ノ前
[由緒]記載なし。
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2022.07.06訪問)