美風庵だより

風にちる 花のゆくえは 知らねども

うきは市吉井町 素盞鳴神社




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事前の予習が間に合わず、まったく予備知識なしで訪問しました。

とにかく敷地の広さと、立派な楼門を構えた祇園さまの威容に「さすが吉井商人カネかけてるわ」と感じ入ります。炭坑成金もけっこう立派な神社を地元に奉納したりしているのですが、山を切り崩さないかぎり土地の手当てはできませんから、建物や装飾・装備は豪華であっても、意外と敷地は狭かったりするものです。

ざっと見て、千坪はありそうです。

しかし……。ひととおりぐるりと拝見して、どうも境内が広すぎるのが気になります。

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瑞高山東光寺と祇園社の由来
東光寺は、元来神仏混交の時代、社僧が神仏に奉仕していた。もと上町にあったが、寛延元年(1748)の大火で類焼し、宝暦13年(1763)東光寺5世律師後藤円理の時代に、現在地にうつされたものである。安永3年(1734)藩主有馬頼重公より東光寺の寺号を授与され、久留米城内慈恩院祇園寺の末寺となる。初め天台宗、のち真言宗に転じ、天明8年(1788)高野山発光院から「瑞高山」の山号を授けられた。
東光寺には寺子屋が開かれ、多くの吉井商人の子弟が学んだ。日田の広瀬淡窓の生母は、この寺の出身で第7世住職後藤桓龍氏の娘「ゆい」である。また、9代目の後藤謙次郎の三男格次は学士院思賜賞を受けた著名な化学者として知られる。
明治の初期、神仏分離令により廃寺となった祇園社は、素盞鳴神社と改称、新たに司掌職が置かれ、安元幸雄氏が社掌を拝命された。

おそらくこの敷地めいっぱい、寺院としての建物がいろいろ建っていたはずです。廃仏毀釈により神社に衣替えする際、相当なものが失われたと思われます。

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福岡県神社誌では、明治27年(1894年)に社殿を改築したとありますから、いまの本殿と拝殿は、おそらくこのときに建てられたものでしょう。前年に隣地を買収し境内拡張ともありますから、この社殿を建てるにあたり、なにか不都合があったのでしょうか。

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境内社は、隣の幼稚園側にまとめられていました。文字が判読できず、どれがどのお宮さんなのかは、わかりませんでした。

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敷地の裏手には墓地があります。祇園寺だった時代は、この墓地も管理していたのかもしれません。墓地内に観音堂があり、手をあわせている初老のかたがおられました。私が訪問したのは9月23日の秋分の日でしたから、墓参りのついでにお参りされていたのでしょう。

福岡県神社誌:中巻246頁
[社名(御祭神)]素戔嗚神社(素戔嗚尊)
[社格]村社
[住所]浮羽郡吉井町字橋本
[境内社(御祭神)]秋葉神社(軻遇突智命)、月読神社(月弓命)、宮地嶽神社(息長足比売命)、恵比須神社(事代主命)
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2021.09.23訪問)