松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

久留米市大善寺町宮本 玉垂神社(玉垂宮)


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この日記に何度も登場した大善寺玉垂宮を再訪しました。過去に取り上げた文章は、日記内を検索していただければ出てくると思います。といっても、神社めぐりというよりかは、通りかかるたびに「仕事くれ」「カネくれ」と神様を拝んだ記録ばかりで恥ずかしいのですが……(あと、精力絶倫祈願の神様が居る話とか)。

なにはともあれ、からかさ橋を渡って、玉垂宮に向かいます。

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急に再訪する気になったのは、この楼門と左右の「坂本社」の配置にあります。

朝倉市下浦 王子神社(王子宮) - 美風庵だより

天石門別神 - Wikipedia

朝倉市下浦の王子宮では「門守社」とされ、それぞれの御祭神は櫛磐窓神、豊磐窓神とされていました。

似たような構図なのに、この違いはどこから来るのでしょうか。夜明神社をはじめいくつか訪問しているうちに、どうやら下浦の王子宮は御祭神を御子9人全員としたため、帳尻が合わなくなって「門守社」としたのではないかと思えてきたのです。

おそらく下浦の王子宮は、玉垂命の御子(九体皇子)全員を本殿に祀るのではなく、坂本命を引き連れた誰か(もしくは複数)をお祀りしています。

九州王朝の築後遷宮 玉垂命と九州王朝の都 古賀達也

20年前、はじめてこれを読んだとき、世の中には面白いものを考えるひとがいるくらいにしか考えていませんでしたが、ここにお祀りされているのは玉垂命ではなく、その長子 斯礼賀志命ではないでしょうか。宮司を代々つとめる隈氏の祖が斯礼賀志命であることとも一致します。

そして、もう一歩踏み込むなら、この斯礼賀志命こそ、仁徳天皇(大鷦鷯天皇:おほさざきのすめらみこと)の別名(本名?)かもしれないのです。

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境内に生目八幡宮がなぜ存在するのか、やっとおぼろげにわかってきました。

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境内案内|大善寺玉垂宮

目の神様として知られるこの社は、もとは西小路区の氏神で下の境内にありました。生目八幡は、宮崎県の生目村(現宮崎市)にある神社から起こったもので、創建年代は明らかではありません。

(注 赤字による強調は筆者によるものです)

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最終的に八幡大神という名を独り占めしたのは応神天皇ですが、ここでは活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)こと「垂仁天皇」が八幡神として祀られています。彼のもう一つの名は、宇佐津彦(宇沙都比古)です。大善寺玉垂宮と宇佐神宮には関連があります

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垂仁天皇 - Wikipedia

崇神天皇の第3皇子。生母は皇后の御間城姫命(みまきひめのみこと、大彦命の娘)である[1]。兄の豊城入彦命をこえて、24才で皇太子に立てられる[1]。
父帝が崩御した翌年の1月2日に即位[1]。即位2年に彦坐王天皇の伯父)の娘の狭穂姫を皇后とした[1]。即位5年に皇后の兄の狭穂彦が叛乱を起こし、皇后もこれに従って兄と共に焼死した[1]。即位15年2月、丹波道主王の娘の日葉酢媛を新たな皇后として大足彦尊(景行天皇)、倭姫命らを得た[1]。
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兄を差し置いて弟が皇太子に立てられ、伯父の子を皇后にすれば、その皇后は夫を裏切り実兄と心中するという、なかなかの波乱万丈ぶりです。崇神王朝への王朝交代は一筋縄ではいかなかったことがわかります。

 

北九州市小倉北区妙見町 足立山妙見宮 - 美風庵だより

さきに紹介した古賀達也氏の論考に「長男斯礼賀志命は朝廷に臣として仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続いているとある。」とあります。

これも当時よくわからなかったのですが、仁徳天皇がなぜ「大鷦鷯天皇:おほさざきのすめらみこと」なのか、下線がその答えなのです。玉垂命(開化天皇)が稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと)を名乗ったのに、その子の名乗りに「やまと」がないのは、すでに最高権力者の地位にはなかったことを示しています。記紀が、(王朝を譲ってくれた功労者である)仁徳天皇を聖帝と褒めちぎり、現王朝が、日本最大の古墳である大仙陵古墳を「仁徳天皇陵」と比定するのも、当然と言えば当然のことなのです。

 

すると、おなじ玉垂命の子供たちであっても、高良山の高良玉垂宮に祀られた面々と、王朝交代に従った大善寺玉垂宮に祀られた面々(とくに仁徳天皇)は、立てこもるか、臣従するか、別々の道をここで歩みはじめたことになります。

 

三井郡大刀洗町三川 印鑰神社 - 美風庵だより

話をもとに戻すと、印鑰神社などに祀られている宇太乃大称奈(うだのおおねな)も、「天の磐戸の鑰(かぎ)を領け」られた存在であり、これもまた大きな意味で門守と言えそうです。

道首名 - Wikipedia

道首名についても、初代筑後国司として赴任した外交官経験ありの元中央エリート官僚というwikiの記述を丸のみして、そう刷り込まれていました。

中央といっても、それがもし、玉垂命から崇神王朝への王朝交代時における「中央」だったら?まだ畿内に遷都する前なので、この筑紫(尽くし=すべて)国が「中央」にほかなりません。

印鑰神社の真の御祭神は、坂本命とその側近たちであり、彼らの一族ではなかったのでしょうか。だからこそ崇神王朝になって神宮を伊勢に建設することになったとき、彼らの一族は大物忌に採用されたのです。

内宮と外宮 - 美風庵だより

内宮と外宮を訪ねて(1) - 美風庵だより

内宮と外宮を訪ねて(2) - 美風庵だより

内宮と外宮を訪ねて(3・終) - 美風庵だより

伊勢にある神宮は、玉垂命(筑紫君)をはじめ、過去の王朝を祀り上げるための祭祀場であり、けっして現王朝の祖神を祀る場ではありません。わざわざ伊勢まで行かなくても、電車や車で1時間ほどのところに、こんな立派な痕跡が残っていたとは……。灯台もと暗しとはこのことでした。

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[福岡県神社誌(抄)]下巻1頁
[社名(御祭神)]玉垂神社(武内宿禰春日大神八幡大神
[社格]県社
[住所]三潴郡大善寺町大字宮本字村南
[境内社]祇園社、合祀社(佐野の神)
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(2020.02.15訪問)