まず、今回の神社を紹介する前に、西鉄天神大牟田線八丁牟田駅からJR鹿児島本線羽犬塚駅に至る国道442号線沿いにある、過去にこの日記にも登場した玉垂宮の航空写真と地図を、googleマップから切り出したものをご覧ください。
(1)長い参道(2)周囲が堀や池で囲まれている(3)周囲から見て「島」になっている、という特徴があります。これは、県南、とくに城島、大木、筑後羽犬塚方面の玉垂宮によくみられる様式です。
では、この写真をご覧いただきましょう。
まるで田んぼのなかに浮かぶ島のようです。
1898年(明治31年)の宣伝絵図が拝殿に掲示されていました。ほぼ同じ状況なのがわかります(発展してませんね……)。長い参道で隔てられた「島」です。
参道を歩いて渡ると、鳥居があります。鳥居をくぐって境内に入ると、なんと社殿を真横から眺める位置に出ます。
赤貧が最初に着目したのは、筑前国の神社なのに、現在の久留米市北野町のかたが書いた資料が福岡県神社誌に引用されていることでした。
そして、八幡宮と称しつつ、神功皇后・武内宿禰(=玉垂命)・仁徳天皇の3人が祀られています。応神天皇のオの字もありません。通説では仁徳天皇は応神天皇の子とされていますが、赤貧は神秘書や先行研究などから、おそらくは玉垂命と神功皇后の子は仁徳天皇ではないか、と考えています。つまり、八幡宮に偽装した(筑紫君夫婦と子供を祀る)玉垂宮のひとつなのです。
むろん、扁額は「若八幡宮」ですし、本殿の御神紋は三つ巴紋ですから、公式には八幡宮で間違いありませんが、内実は、宇佐宮に支配される前の、ほんらいの玉垂宮が残っています。
氏子である中益地区に背中を向けて、川に向かって伸びる参道はどこを向いているのでしょうか。
なんと、2~3度ほどの誤差で、高良山を向いています。
ちなみに、この神社の参道沿いに、赤貧の祖母の実家があります。もともとなにかのご縁があったということなのでしょうか。
まさかこれほどの玉垂宮が身近に存在したとは、にわかには信じられない気分です。
(2019.07.06訪問)