松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

テレサ・テン

(今日はなにげにインタビュー風に)
 
昔好きだった歌手の一人です。
いや、べつに年齢ごまかしてるわけじゃないですよ(^^ゞ
だって、うまいんだもん。
意味わかんないけど、すごく聴いていてせつないの。
ああ、うまいな。
そう直感的に感じて、それから名前を覚えたというのかな。
 
「愛人」とか「つぐない」とか「時の流れに身をまかせて」といった全盛期の曲はあとから知ったくちで、私が最初にいいなあ、と思って一発で覚えたのが、
「恋人たちの神話」
という曲でした。これがどうも1988年らしい。
当時、今もあるのかもしれませんが、ブティック社というところから「歌謡曲」という雑誌が出ていまして、これ時々買ってたんですね。
なんでかというと、歌謡曲吹奏楽やピアノでやれるよう編曲して、それを発表するという作業をけっこうやってまして。もともとそのネタ本として買ってたんです。
で、たまたまこの曲が譜面で出てた。メロディーがね。
あ、違う、いいな、って思いました。
それまで聴いてなかったんですよ。家にはピアノがなかったから、オルガンで音をとるんですが、それが本当に切ないメロディーになる。
 
ちょうど20年前ですね。
この次の曲がたぶん「悲しい自由」ですよね。それから数年後、今確認したら91年に「悲しみと踊らせて」というのが出ました。
これも良くてね。
 
「別れの予感」も好きでしたよ。これは「恋人たちの神話」の前に発売された曲なんですが、たしか自分でシングル買ってきてレコードから譜面にメロディーおこした記憶があります。
この辺りのテレサの曲は、じつに大人なんです。「愛人」や「つぐない」の頃のようにジタバタしてない。お涙頂戴が薄れてる。
それがやはり、私のような者がとっつきやすかった理由じゃないかな。
 
のちに、中森明菜さんが「別れの予感」をカバーしたとき、見る目あるなあ、と思いましたもん。明菜版も良かったなあ。
元が良ければどういう編曲にも歌唱にも耐えられるという見本だと思いましたね。
 
逆にね、正直に言うと「愛人」とか「つぐない」は今でも好きじゃないの。モロ不倫の歌でしょう(笑)いや、それ以外がそうじゃないかと言われたらそんなことはないんだけど。どうもね。
ああいう尽くす女、耐える女ってどこに居るのよ、って思いますもん。ウソくさくて(笑)あそこまでくるとね。
のちにそういう曲を知って、いや、これはないよ……と思いましたね。
 
どうもね、尽くす女というイメージはアタマにないんです。
女の尽くす、ってのは、男がどうして欲しいかを考えて尽くしてるんじゃなくて、気まぐれでそういう演技してる場合が多い気がする。
だから長続きしないです。例外はあるのかもしれないけど。あくまでも尽くされるのは女なんです。女のなかに意識としてあるのは。
それはね、どんな年代の女性でもそうですよ。面白いくらいね。
既婚未婚問わずです。ここに気をつけて観察して御覧なさい。勉強になるから。
 
やっぱね、バブル時代の隅にひっかかってる世代だから、メッシーとかアッシーが基本だという認識があるんです。そうでないといけないよ、そうじゃないといけないよ、というね。
それがイヤなら最初から恋愛市場に自分を商品として出品しなきゃいいんです。カネも貯まるし(笑)ちょっと話がそれたかな。
そういう流れが片方にあって、だから「尽くす女」というイメージを前面に出した、テレサが売れたんじゃないかな。どっかで時代がバランスをとったというかね。そんな気がします。
現実には居ないから、男はいい曲だと思って受け容れたんだろうし、女性にしても、やっぱり男が求めてるイメージってわかってるから、そういうのをちょっと演じるための道具っていうかね、ちょっとは覗いて酔ってみたい雰囲気というかね、そういうものを求めてたんじゃないかな。

ちょうど、ある男性作家の不倫物が売れた時期でもありますよね。「化身」とか「ひとひらの雪」とか。あれも男のほうは尽くす女を求めてますよ。女もそういうところに途中まではつき合う、最後まではつきあってはくれないけど。そこで話は終わるんです。結論があって終わるわけじゃない。
 
だから、今の歌手が歌ってもさまにならないのは当然だという気がします。あれはね、あの時代が彼女に歌わせたんです。たぶん。