松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

嘉麻市平山 弁財天社?

Google マップ

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7月14日、17時から山笠のため集合する合間をぬって、以前から気になっていた嘉麻市平山の弁財天社を訪ねてみることにしました。

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福岡県神社誌の「無格社一覧」では、碓井村大字平山に無格社が4つ存在しています。この4社とはべつに、旧村社の八幡宮も掲載されていて、ぜんぶで5つある勘定です。
赤貧が気になったのは、弁財天社です。御祭神が田心姫命(たごりひめ)となっています。弁天様=市杵島姫(いちきしまひめ)で、道主貴(みちぬしのむち)が田心姫とばかり思っていましたので、弁財天社の名前で、田心姫とくれば、実見しないわけにはいきません。

嘉麻市平山は、嘉麻市碓井中学校や筑豊園という老人ホームがある辺りで、ひとの住んでいるエリアはそれほど広くありません。ため池のあたりで折り返して、ぐるりと二周もすれば見つかるだろう……、となめてかかっていました。

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最初にきづいたのが(1)の祠でした。写真をうっかり撮り忘れたので、googleマップの画像で代用しますが、祠には梅鉢紋がついていました。天満宮のようです。

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しばらく行くと、(2)を発見しました。祠をぐるりと見渡すと、やはりここも梅鉢紋がついています。天満宮のようです。

もしかするとため池の上にあるのではないかと考え直し、いよいよ細くなった道をのぼっていくと、地蔵堂にでました。さらに上がると、老人ホームに出ます。

あてが外れたな……と思いつつ、離合もままならぬ道を、旧村社の八幡宮を通り過ぎて、下ります。

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(3)のところでまた祠を発見したのでよく見ると、これも梅鉢紋がついています。天満宮です。社殿のなかに神棚があり、そこに脇差をさした菅公の御神体が祀られていました。どうみても男で、田心姫っぽくありません。

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どこかの家で「この近くに弁天様があるはずなんですが?」と訊ねようかと思った矢先、(4)でまた祠を発見しました。祠が2つ並んでおり、拝殿はじつに簡素なものです。祠の石が傷んで文字が読めません。

思いきって近くの家を訪ねてみたのですが、室外機は動いているのに誰も出てきません。ふと気づくと、子供がカーテン越しにこちらを見ています。どうやら、子供だけしか在宅していないようです。

……というわけで、実際のところこれが弁財天社なのかどうかもよくわからない状況です。思い切り間違っている可能性があります。

とはいえ、祠が2つあるという点が重要で、片方は弁財天だとしても、もう片方はなにか、気になります。市杵島姫(弁財天)との組み合わせなら、もう片方は江戸時代の習俗的には恵比須さまだと考えるものですが、いかんせん田心姫(道主貴・豊玉姫)はほんらい宗像大社の(宇佐宮でも)メインであることも考えあわせると、もう片方が市杵島姫=弁財天という可能性もでてきます。

祠の大小を考えれば、大己貴(夫)と田心姫(妃)もあり得るけれど、弁財天になりません。やはり市杵島姫が絡んでいる必要がある。

 宗像三女神日本書紀の影響で3姉妹かなにかのように理解されていますが、各地の神社に残る文献は、3人は姉妹ではなく、大己貴のお妃という点でつながっています。

非常に下品だけれどずばり言えば「お手つき三人組」です。湍津姫と田心姫は父親が同じ(異母姉妹)ですが、市杵島姫はスサノオが親父で、血縁も違う。

間違えたのか。理由があるのか。結局はわからずじまいです。あらためて碓井町誌などを確認してみたいとおもいます。

(2019.07.14訪問)

広島市東区二葉の里 広島東照宮


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赤貧は意外と東照宮に縁がありません。

東武特急スペーシアがデビューした平成になってすぐのころ、登場して何年かのち一度だけ、乗りたいので乗ってみたことがありました。そのとき、途中下車して野岩鉄道から会津方面に抜けてしまったため、実質的にはかすりもしていません。

境内社東照宮は、各地でみかければ手をあわせることがありましたが、大きな単独で建っている東照宮は、もしかすると初めてかもしれません。

広島駅の改札を出て、地図で見当をつけて歩きはじめると、数分で立派な参道に到着しました。

東照宮本体はそこまで大きな神社ではありませんが、付帯する建物、唐門や翼廊、境内社がみっちりと建っており、なかなか壮観です。

御祭神は案内板によれば「源家康」とあります。は?徳川家康公でしょ?と一瞬考えましたが、家康公は源氏長者として征夷大将軍宣下をうけたわけで、この書き方が正しいのです。

本殿裏にまわるとお稲荷さんや福禄寿がありました。

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階段をあがると、金光稲荷神社があります。

じつは千本鳥居はさらに山上まで伸びているのですが、暑いなか登る気力もなく、訪問は寒い時期に譲ることにしました。なにせ最初に訪問したこの東照宮の時点で、持参したタオルが絞れるくらい汗かいてますので……。

本家の東照宮に行ったことはありませんが、ここまでお稲荷さんだらけということはないでしょう。……と考えていたら、ふと、思い出すことがありました。いまの日光東照宮は、もとは二荒山神社輪王寺まで含めた一大聖地として整備されていたわけで、いろいろな信仰のなかに、家康公を中心として据えることに意味があったわけです。

稲荷神社の御祭神はウカノミタマ(稲魂神)であり、豊受姫であり、卑弥呼の後継者トヨでもあります。それを従えるのは、ほんらいであれば内宮ですが、ここでは東照宮なのです。

最近まで赤貧も、どうして大きい神社は片っ端からお稲荷さんが境内にあるのか謎でしたが、内宮=外宮の関係になぞらえて神様の格を高くみせるために存在している面があることに、やっと気づいてきました。外宮が盛大であればあるほど、内宮の価値もあがるわけで、千本鳥居の立ち並ぶ姿が立派である必要があったわけです。
(2019.07.12訪問)